若くして(子供が幼いうちに)伴侶に先立たれるなどということは寂しさだけでなくこれからの家庭を維持するうえでの不安が、一瞬間なりとも招来されるでしょう。
ただし人にはその現実を受け入れてまたその苦痛を時にバネとして生きようとする強さも持ちあわせています。
ところが子供たちが成長し齢八十も過ぎてから夫婦のうち特に夫が先に亡くなった場合、残った妻は夫をリセットするかのように忘れようとする傾向があることに気づきました。
私の母も友人の「奥の墓道」の母もそうですね。
母親は比較的頭の方は「ハッキリ、スッキリ」なのですが、冗談のつもりで「あんたの夫の名は?」と聞けば私がこれまで聞いた事も無いような名を出します。墓道の母親は、「知らぬ存ぜぬ」の一点張りの様。
ひょっとしてその世代の男というものの性質、いわゆる昔ながらの「家長面」をして妻を「親に従い 夫に従い 子に従い」の精神で対していた結果がこうなった?と勘繰るところです。
戦国時代後期、妻に先立たれて、色々な思いがあったのでしょう、菩提を弔うために小さいながらもお寺を建立した武将がいました。
その人が山中山城守長俊です。
以前滋賀県の西教寺にある墓と言われるものをブログで記しました。
長俊は堀秀政の紹介で秀吉配下となりその知略と文才を発揮しこの東山五条に居を構えてあの方広寺建築に携わったといいます。その屋敷を妻の菩提寺としたということでしょう。
この勿論このお寺の名が長俊室の法名「慈芳院」。
場所は清水寺や大谷本廟近隣の東山五条交差点近く。
一方通行ですのでその通りからは車両では進入できません。
道も狭いのでこの裏の通りへの進入もキツイものがあります。
まぁ土日祭日や陶器市などが重なれば、東大路通は車と人でごった返してどうにもなりそうもない場所です(場所はここ)。
こちらのお寺には石仏の薬師如来が鎮座しています。
聞くところによれば鎌倉時代の作といいますが、通常その手のものが現存すれば重文クラスの宝物扱いとなってもいいのですが・・・イイ味は出しています。
⑤⑥は大谷本廟入口。お西さんです。お東は「大谷祖廟」です。お間違いないように。
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