墓参りに限りを設けることは面白くないですね。
時折来られる「○○さんのお墓はどちら?」という問いには私が庫裏に居る限り直接案内をしています。
一応気持ち的には「コレって個人情報?」というような疑問も残らないワケでもありませんが、「どなたでもお参りください」が拙寺の本望主旨ですので当然に墓参までそれを通しています。
以前はお供物と賽銭狙いの不逞の輩の出没も散見されましたが、ここのところは私の知る限りにおいて、おかげさまで何事もありません。まぁ「声を掛ける、挨拶をする」ことが功を奏しているような気がしますが、つまるところ人を信用するかしないかの問題となるのでしょう。
そういうことで、寺に入ってきた見慣れぬ人をハナから不審者扱いして、また拒絶の躰を示す寺の態度があったとしたら寂しい限りです。
私の場合もいたるところでおそらく不審者の躰を曝していますが、まず「こんにちは・・・」とこちらから先に声をかけて「ニッコリ」してしまえば「まったくOK!」という感じ。
私の経験上、「ヤバいな」と思う方は、挙動が不審ということもありますが、声をかけても返答をしなかったり、目をそらして会釈すらしないというのがヒントです。
坊さんが他者不信に陥ることはちょいとオカシな気もしますが、かといって無防備無管理でいられるワケもありません。手っ取り早いのは拒絶・拒否して人を受け付けなければそれで足りてしまいますね。
どういうお寺さんがそういう傾向が強いかというとコレは一概にはいえません。各宗派漏れなくその手のお寺はあって、特に大寺院を取り巻く塔頭寺院、拝観料を徴収するお寺の類には多いのですが、意外にも「同朋」を称する真宗寺院であっても敷居の高そうなお寺はあるようです。
まずは「観光寺ではない」が常套句。また他宗では「修行道場だから」という理由もよく耳目にします。
これは寺そのものが世間に対して自由な参拝を阻害していることであり、この傾向は「仏縁を結ぶ」という本来の民の意思を抹殺しているようにも感じます。
その二つの理由とも言ってみれば「救われるのは坊主のみ」の提示の様にも思えますね 。
ただ、「一見さん、通りすがりの客」への姿勢であって単に「面倒くさい」「不毛である」という管理者のありかたでしたら仏道を差配する施設としてはちょいとお寒いものがありましょう。
私は大小また有名無名たくさんのお寺さんに行く機会があり、それが楽しみの一つにもなっています。
どこかでも記しているでしょうが、家族連れで墓域を墓参りを兼ねて散策すれば、子供の声はじめ我らのお喋りに対し、箒を持った坊守さんが凄い剣幕で出てきたことが思い出されます。
境内墓域で家族連れがはしゃいでいるシーンなど私の寺では日常茶飯事ですのでこれには一瞬固まってしまいました。
もし私が「墓の中に居る」としても「騒がしいので静粛にしろ」などと言う気にはなれませんし・・・。
要は寺の住職の考え方、性質によるものでしょうね。
殊に参詣・墓参にあまりに厳粛・荘厳さを求めて垣根と敷居を高めにとることは長期スパンで考えれば仏教衰退の要因になり得るのかもしれないと考えるようになりました。
さて、先日は初倉の医王寺で腹を切った彰義隊の大谷内龍五郎について記しましたがその立会人としてその場に居合わせた人が幕臣牧之原入植者の副リーダー大草高重でした。
あの牧之原台地から大井川を見下ろす丘に立つ中條景昭の足元にある「開墾方人員」名簿を今一度見てみますと、「岡田原居住十七名」とありますね。この医王寺がまさに初倉の岡田原です。
そしてまたこのお寺から直近、南側に広がる茶畑の中、大草家の屋敷があります。こちらは屋敷跡ではなく、彼の子孫、大草家が現住しています。
この辺りでは代々の名家でそれを知らぬローカルは皆無でしょう。当然ながら彼らが入植した当初は山林原野だったといいますのでまさにフロンティアだったわけです。
尚、大草家代々、大草高重の墓は菩提寺の墓域にはありません。
かつて空港の脇のお寺の寺領が開発によって買収されていましたが、こちらはそのほど近い場所にあって、現在は完全にゴルフ場施設の中。
ただし歴とした墓地ですので参拝は自由(場所はここ)のはず。
もろにフロント前を通過し、まずは客の接待のお迎え係りの人と目が合いますが、そこは何となく直進するか、近くの駐車場に車を停めてそのまま道を上ります。
声を掛けられたら「墓参り」と伝えればいいこと。
係もゴルファー以外にも墓参りがあることを承知していますので構う事はありません。ただし「ゴルフ場施設を通行させてもらっている」ことは意識しなくてはなりませんね。
きっと造成によりかき集められた墓石があったのでしょう、墓域には適当に積まれた宝篋印塔や五輪塔の残欠が設えられた大きな台座の上に並べられていました。
この場所は「六ツ塚」と呼ばれていたようですね。
例に漏れず首の弾かれた石仏も散見。
大草家の墓域の一番奥に大草高重の墓がありました。
この墓の裏には葬儀委員だった勝海舟の歌が彫られているのですが、光の加減でうまく撮れていませんでした。
「手なれつる 玉の小琴の緒をたゝむ
古りししらべは 聞く人もなし」
大草高重の生涯と良きしらべを響かした小琴の音と重ねたものといいます。
時も移り変わり古い音の琴などもはや誰も聞く者はいない、さびしくなったがここでこの琴は仕舞にしよう。
近くに和田勝重の墓もありました。
小嶋家の墓碑もありましたが、①の小嶋勝直家との確証はありません。
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