新聞紙上にビリー・ザ・キッドの写真が新たに「発掘」されたという件が。彼の写真といわれるものは何種類か見た事がありますが、そこに真正のものとのお墨付きが。記事によれば数ドルで骨董屋から購入した写真が「ビリーに似ている」ということから鑑定を依頼したとのこと。
なんと価格は日本円で約6億円。たかが古写真といえど何とも大化けしたものです。
ビリーの生きた時代は南北戦争直後でアメリカの「戦国時代」ですね。
日本で言えば幕末から明治初期ですからいかにもアメリカ合衆国の歴史の浅さというものがわかります。そもそも写真技術などもまさに近代的。それが多大な価値を生む第1級の骨とう品であるというのですから、少々驚かされます。
日本に於いて幕末の品物で有名人の所有物であったといわれてもそれだけの値がつくものなどまず無いでしょうね。
写真などコピーができるものですし、たとえ「現品である」といってもその複写品を見てしまえばそれでほとんど納得してしまうような代物です。ということでその写真はネット上に出回っていますが、下手にコピーしてアップしたら、著作権の侵害ということで訴えられる可能性もありますので、これはリンクだけにしておきます。
さて、先日は現在の二条城の南側の六角通―三条通―御池通周辺の事情をさらっと記しましたが、私は三条のアーケードが怖かったこともあって御池通りから南へ向かう一方通行を選択しました(場所はここ)。
この入口の右側に開陽堂という刀剣屋さんがあって十分に興味をそそられますがそれは我慢、その道を入ってスグ左側のコインパーキングに車を駐車。
そちらから武信稲荷に向かいました。
その刀剣屋の角には「若州小浜藩邸跡」という石碑に看板、そして幕末の燈籠が立っています。
小浜城といえば以前、「墓道」と近江超えをした際、金ヶ崎城か選択を迷って小浜を諦めたという経緯がありましたが、その小浜藩を明治にかけて治めたのが川越から転封してきた酒井家、酒井忠勝でした。そのうち京都所司代に任じられたのが
酒井忠用(1752年-1756年)
酒井忠進(1808年-1815年)
酒井忠義(1843年-1850年)(1858年-1862年)
で特に手腕を振るったことで有名な人が酒井忠義でした。
井伊直弼と連携して京都市中の不穏分子を片っ端から捕縛しています。
山脇東洋が初めて人体解剖を行った六角獄舎が近隣、この屋敷近くにあったというのも頷けるところです。また文久三(1863)年に徳川慶喜は当初の宿舎を東本願寺にしていましたが、京都政治の中心地であった二条城に近い小浜藩酒井家邸に移りこちらで3年と10カ月の間を過ごしています。
山脇東洋は酒井忠用の承諾を受けて日本の医学の先駆けとなった人でしたが彼に続いた杉田玄白が小浜藩の医師だったということも面白いところです。
幕末時期のあの燈籠とビリーの写真は同時代。かたや紙切れ、私は燈籠の方がイイですね。
ビリー・ザ・キッドは以前は西部劇の花形でした。
先日記したイーストウッドのマカロニウェスタンと同様です。
数あるウェスタンに悪役ながら顔を出していますし名作揃い、ということは特別なアメリカンヒーローなのですね。
私はサム・ペキンパー監督の『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』が印象的でした。特にボブ・ディランの
「天国への扉」 ("Knockin' on Heaven's Door")は私のお気に入りの一つ。
色々なアーティストが手掛けていますが「GUNS N' ROSES」のそれもイイですね。
歌詞
~Mama, put my guns in the ground
I can't shoot them anymore.~
とは言わずと知れた・・・
そういう歌を唄う人は日本には居なくなりました。
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