「完膚なきまで」・・・これも中国の故事からですね。
「完膚」とは、「傷を負わない健全な皮膚」のことで、それが無いということから、転じて徹底的に(叩きのめす・・・)ということです。
仏教の法を分かち合う者として、あの「廃仏毀釈」ほど呆れた暴走は無かったと常々思い、その歴史的な大きな誤り(歴史文化の逸失)を悔やむことしきり、そのことはブログでも時折触れさせていただいております。
その廃仏毀釈について、この遠州においてはおかげさまで殆ど無かったに等しいくらいに限定的で軽微なものだったのですが(道端の石仏が棍棒でぶん殴られて、その首が飛ぶ程度)、その物差しはやはり「暴力的」な破壊があったか無かったかにあるでしょうね。
その廃仏毀釈の思想に一旦火が付いた時、冷静さというものを失って徹底的に苛烈さを伴って寺院の破壊活動に繋がった地といえば苗木でした。
殆ど他では類を見ないほど完膚なきまでに一掃されたと言われています。
苗木藩が小藩で同じ家系が続いていたということも少なからずその仏から神への方向転換の施策が何ともなく、強行されていったということに関係があったのではないかと思います。
新領主が入れ替わるような地で、それまでの仏教宗旨を全廃することなど、まず受け入れられないでしょう。
長い長い、先祖代々からのお付き合いがある殿さまの家中から出た(お墨付き)転換で殊に民の従順さが表に出たのでしょう。
もっとも「明治」とはいえ封建社会は継続中の世でしたから。
旗振り役は明治維新後に、苗木で力を保った青山直道と言う人です。この人は元々は家中の下級武士でしたが、平田篤胤の門人として国学という当時一番の発信・発言根拠であったために家中でも顔役になって行ったのだと思います。
当初は当然にその改革論に反対する者たちは現われて抵抗はしますが、多くが粛清されてしまい、その後はいよいよ彼の思うままに政(まつりごと)が遂行されるようになったのでした。
驚きなのは、藩内のお寺(15ケ寺?)をすべて強制的に廃寺として、坊さんは還俗させ、神社のみを厚遇し、民はこれまでの位牌・仏壇等を焼き捨てて、神道に強制改宗させたことです。それだけに飽き足らず藩主の菩提寺まで潰しています。
最後の藩主らのその傍観は何ともいやはや、情けないですね。
過渡期というものの変化を美化してしまうと「やりたい放題」の輩が出てくるものです。
遠山の金さんがいたとしたらどう思ったのでしょうね。
現代もその廃仏毀釈の残存は色々な所、(場所、政治等)窺う事はできますが、同じ遠山苗木藩領の東白川村(飛騨白川とは別です)などは日本で唯一「寺が無い」場所ですね。
岐阜県は比較的真宗が浸透した地であることは承知していますが割られた六字の名号はショッキングです(ウィキ参照)。
苗木城の麓には遠山氏苗木藩歴代の墓地があります。
廃寺ののちに移されたものと。
中には慌てて、墓石過去帳等を隠した家もあったとのこと。
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くりくり (金曜日, 16 10月 2015 14:52)
神社は好きなのですが、じゃあ何がよいのだといわれても、古い樹木があるとか
鳥居が立派とか抽象的です。祝詞に何か人生の示唆があるかといえば、「祓い給へ、清め給へ」ばかりで、実は内容は全然ないのではと思う次第です。教義だって…不明ですね。
反対をいえばどうとでも解釈できる。同じ神道でくくられる「地の神」の様な原始宗教が、先祖と自然を畏怖するのと、天皇を庇護するのは、全く関係ない無いですからね。
今井一光 (金曜日, 16 10月 2015 18:33)
ありがとうございます。
私には地元に尊敬する刀剣のエキスパートがいますがその方はこちらでは最も古い神主
の家に生まれた方です。
勿論神主としての仕事もかけもちしていますが、「神主は喰わんぬし」と言っては
仕事がこないことを嘆きながらもその世界をなかば茶化しています。
「神社の神主は寺の坊主が嫌い」(あるいはその逆)と思いがちになりますが、
そうとは限りませんね。
政治が本来の共存を壊してそれを利用したということでしょう。ただ「利用」というよりも
一部先鋭的な思想を持つ人が幅を利かすようになると思わぬ展開にも
なりうるということでしょうか。
を、