中国伝来の医学に疑義  最初の実証主義 山脇東洋

今年もノーベル賞に日本人の科学者が・・・、それもお二人も。

一定の実績の賞に価するような業績を残す人という人の脳ミソというものはやはり一般人のそれとは違うのでしょうね。

これぞと決めた一つのモノへの探究心が半端ではないのだと思います。

 

カラカラに喉を乾かしてアルコール系を一気にあおってからの一言、「五臓六腑に染みわたる」などとはよく聞く台詞です。

この「五臓六腑」という語は発祥は古く(B.C.2頃)、中国古来の医学文献に出てくるそうです。

その医学書といってもほとんど「易」「占星」、そして「気」に「運勢」のような陰陽五行をベースとした「道教儒教的な科学書」の部類だったらしく、今の科学・医学とは少々雰囲気が違っていたようで。

 

それを学ぶ医学書ときたら中国からの輸入文献が主でしたので日本の医学というものもずっと、今でいう根拠のない民間療法に毛の生えたような、また呪いにも似た投薬や荒療治ありの医学が常識世界でした。

 

その古い中国系の医学に疑問符を掲げて「実証」「実験」を研究の基盤とする確固たる「科学」の我が国の先駆者といえば、山脇東洋でしょうか。

東洋という名を聞けば土佐藩士にも居ましたが私は、浜岡の故鈴木東洋氏を思い出します(面識はありませんでしたが・・・)。

静岡古城研究会長で医師でした。

医師で「東洋」といえば連想するはその山脇東洋ですね。

 

彼は当初より医師として人体の構造を知るために人のそれと似ているということからカワウソを研究していたそうですが、結局は人では無いということからの不満から、日本で初めて人体の解剖をした人です。

 

初めてそれを手掛けるということは度胸がいりますね。

斬首された罪人の嘉平次という人の体を京都所司代の酒井忠用(ただもち)に貰い受けて、念願の人体へメスを入れたとのこと。

当時オランダ医学が入ってきていましたので、それと中国古来のもの、どちらが真正かの疑問を明らかにし、確証を得るためには絶対に通らなければならない道でした。

彼は「蔵志」という書物を表してそのような実証主義を伝播させ杉田玄白・前野良沢らの小塚原処刑場にての罪人の体の解剖による実証による医学書の草分けだった「解体新書」に繋がっていきます。

 

昨日のブログで記した六角獄舎が山脇東洋の初解剖の場と言われていますが、あの「忠霊塔」の石碑が解剖台だったという噂もあるようです。色合いが「赤っぽい」だけといえばそうですが。

 

新京極の誓願寺墓地に「山脇東洋解剖碑所在墓地」の碑が建っています。山脇家が手掛けた14名の被験者供養碑があるとのこと(場所はここ)。

六角獄舎跡(画像①②③)からそのままずっと東に行けば新京極の繁華街、ビルの谷間にそれが・・・。ここは「寺町」とも言われます。画像④⑤⑥。