どさくさの中の問答用 こちらは37名 竹林寺

蛤御門の変は結局はその日のうちに鎮圧されて、長州軍

 

の敗退は決定的となったのですが、京都市中、当初の幕府

 

方としてはかなり大慌てしたようです。

 

その騒乱による「どんどん焼け」という市中焼き払われ

 

た火災は全くの想定外ではあったものの長州軍があっさ

 

りと退却したことにはそれも想定外、うれしい誤算だっ

 

たでしょう。

 

 

幕府方はその火をかけて逃げるという破れかぶれ戦法へ

 

の対応管理能力の不審を問う声が上がってきて、じわ

 

じわと反会津と反幕府、そして長州への同情論が盛り上

 

がってたようです。

 

火を放って逃げたのは長州だったはずなのに逆に幕府方が

 

不人気状況に陥ったことには焦りを感じたことでしょう。

 

 

さて、幕府方、京都所司代方の管理下に「三条新地牢屋

 

敷」という牢獄があってこちらには各藩の各事案に関与

 

して捕縛されていた浪士たちが収監されていました。

 

昨日記した真木和泉とは入魂で討幕の急先鋒の平野国臣

 

を筆頭に幕府方とそれぞれの義をかざして一戦交えよう

 

と集まった者たちです。

 

やはり福岡藩で長州人ではありません。

 

 

特にこの牢屋は未決囚が殆どで、中には軽微な罪で収監

 

された尊王攘夷派も含まれていたでしょう。

 

今でも火災が発生した場合の収監施設の対応は適切に収

 

監者を逃がすことを心がけることは当然でしょうが、当

 

時においてそのようなシステムは確立されていません。

 

 

まぁ手っ取り早いのは囚人はそのままにして逃げるのが

 

一番でしょうが、あの際の火災については、表向きは長州

 

軍が囚人を奪回に来るという噂があったことらしいです

 

が、結果的にその牢屋には火は届かなかったそうです。

 

 

京都奉行の滝川具挙(ともあき)はのちに薩長による鳥羽

 

伏見の戦い以降、その敗北から永井玄蕃と同時期に御役

 

御免で「逼塞」させられた人ですが、その人の命でその

 

牢屋で計37名を斬首したとのこと。

 

朝敵として京都の治安を踏みにじった腹いせでもあった

 

でしょう。

 

まぁこのような無茶苦茶がまかり通ったということで

 

しょうが、幕軍不人気に拍車をかけることになったこと

 

は事実でしょう。

 

詳細は看板の文言をお読みください。

 

場所は「だるま寺」で著名な法輪寺のお向かいの竹林寺

 

に遺骨を集めて建碑されています(場所はここ)。