天王山籠城の真木  生存していれば博文より格上  

先日は「彰義隊」の「義」について大谷内龍五郎らの「大義を彰かに」と記しました。

新選組の隊旗印の「誠」なども殆どその手の儒教的精神がベースにあるように思います。

 

毎度の如く記しますが蛤御門の変で京都市中「どんどん焼け」という大火に見舞われます。勿論敗走時に長州方が長州藩邸に放った火がきっかけです。


火災は現中京・下京区のほとんどの地域に及び東本願寺はじめ2万7000世帯ともいわれる家が焼失して多くの人が焼け出されたといいますので、市中の騒乱振りと人々の怒りは酷いものだったでしょう。

その長州藩の中で、その騒乱を強行に主導した人はといえば武闘派の中でも特に過激だった人、真木保臣、通称真木和泉です。

そもそも長州出身でもなく武家の出でも無い神官の家に生まれた彼がそこまでの発言力を得たのがやはり理論で固めた「国学」のカリスマ的指導者に成長していたことですね。

やはり水戸学のマスターとしてです。

著書の中で「士の重んずることは節義」とやはり彼はこの「節義」という言葉を主題にその論を展開しています。

 

考えるに対立の両極端の指導者たちが組織を纏めるために多少の違いはあるにしろ、「義」というものに近い語をその哲学の指針としているのです。

ここで私が思うのはその「義」というものの軽さですね。

「義」という語にはそれを言う人によって何を求めているのか違うということ。

使い方も違えば、その深い浅い、人の考え方によっても正逆違う。

よって「正義」などは「成瀬正義」(正しき義)の名にもあるように、「正誤」があることを示唆していますね。

「義」などという大層な言葉を使い慣れていない現代人としては私もそうですが、ハッキリしてこないのです。

まぁ「義の世界」より「私の世界」にドップリ嵌まり込んでいるいるからしょうがないのですがね。

 

敗戦決定ののち京都に火を放って逃げた真木和泉は長州軍の出陣基地としていた天王山に舞い戻り籠城します。

長州への落ち延びを選択しなかった理由は、敗戦という大ショックと責任の取り方というか、長州にのこのこ帰れるレベルでは無かったでしょう。

何せ「長州朝敵」が確定したのですから。

 

薩摩と会津と新選組の長州狩りが京都市中で繰り広げられますが天王山に迫ったのは新選組の近藤勇でした。

新選組はこの戦いで出番がなかったことと、結果的に京都を焼野原にしてしまったという怒りと焦燥の勢いで一気に攻めあがります。

もっともこの山に残っていたのは真木和泉含めてたった十七名だったといいます。

彼らは天王山の中腹まで逃げ、斬り死にではなく自害を選択したそうです。


天王山といえば秀吉が天下を確定した象徴的な場所。

大陸への出兵論理も彼らからは爽快だったでしょう。

ここにも「関ヶ原」が残っていたのでした。


国学が水戸学と発展し、それが神道と尊王と攘夷を融合した論理で幕府を解体すべく、途中チャンネルの変更もあったのでしょうが一大キャンペーン「討幕」を張った、徳川の血脈を切ること、そして「勝てば官軍」の結果を招いたのが現代に繋がっているということですね。

生きていたとしたら明治政府の相当の地位に落ち着いたことは疑いないところ。生きていてナンボの世界とはよくいいますね。

 

つまるところ「義」を提示したからといっていったい何に対する「義」なのかは一向に知り得ないということですし・・・その義もコロッと変わったりすることもありましょう。

 

画像の塔は天王山宝積寺の三重塔。

以前記した、大山崎山荘美術館の画像にチラっと写っていました。当初彼ら十七名の墓はこちらの下にあったようですが今はあまり人気のない山の中腹です。

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コメント: 2
  • #1

    くりくり (火曜日, 06 10月 2015 23:54)

    京を焼け野原にした責任のある朝敵長州が、たいして日もたっていないのに突然官軍になっちゃうんだから、よく考えるとおかしいですね。国学については、儒学や仏教が入ってくる以前の人々の心情は何かとか、そもそも日本て何なのかについて、古典を丹念読んで明らかにするという所は良いと思います。だだ、政治にいいように利用された側面があるように思うのです。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 07 10月 2015 07:01)

    ありがとうございます。
    長州が官軍に早変わりすることは日本特有のマジックでしたね。
    これは長期にわたる政治思想が陳腐化して人々の意思が成長して
    安定を維持することが難しくなったということでしょうか。
    そこにタイミングよく、いろいろな鬱憤と反発心がまとまっていたところに
    挫折のあとの新知識が加わったタイミングが絶妙だったのだと思います。
    下関戦争の敗北から大いなる「知」を得て、進化していったのです。
    尊王攘夷→尊王討幕→討幕です。幕府は旧態依然の態勢維持を模索するばかりでした。
    やはり「安定」を求めるためには自らも進化することが必要であることを教えています。
    当初の国学という学問が討幕の論理と使用されるとは思いもしなかったでしょうね。
    何でもいいから新しいものを求めるうえで国学の理論が過激解釈されて
    「利用」されていったのは違いないと思います。
    新しもの好きの日本人が復古の理論で封建体制を壊したということですね。