8月下旬にシリアの世界遺産のパルミラ遺跡が破壊されたというニュースがありました。
やはりそうなるのかとその異常性に残念な思いをしましたが、たびたび記します。
よぉーく考えれば我が国の明治維新後の廃仏毀釈も同様なものでしたね。
一部アジテーションによって広まった極端な思想であったこと、幕末の「国学」の布教度の違いで限定的、地域によるその温度差があったことから何とか助かった「仏の教え」の危機でしたが、並べてみれば大きな仏塔はじめ破壊された国の「たからもの」の数や半端ないですからね。考えれば考える程本当につまらぬ暴走を許したものです。
あの「維新」という語に未だ身の毛のよだつ思いのするその由縁です。その場に居合わせていたワケではありませんが、各地の寺院遺構、石仏を見る機会が多い私にとってはその暴挙を目の当たりにすることも少なくないですから。
「廃仏毀釈」の文字は読んで字の如く「仏の教えを廃して、釈迦の教えを棄てる」ですからね。
聖徳太子以来の「仏教」とそれに培われてきた「文化」をたかだか「尊皇攘夷」運動と同時期に盛り上げられた「維新」と呼ばれる大政奉還以降の「時代のドサクサ」で一瞬のうちに問答無用で堂宇と什物を灰燼に帰させたテロリズム、恥ずべき歴史でした。
その「国学」とはなんぞやというと、ゆくゆく討幕運動と変化していった尊王思想の学問的ベースとなった考え方で、中国からの「輸入品」である儒教の教え、仏教ではなく日本のオリジナルとは何ぞやと求めて、それこそがこれと「神的歴史感」を重んじようというものです。
そもそもそれらは古事記、日本書紀という文献のみが根拠であり、その文献も殆ど神話世界の事。信用度という点では極めて低い今でいうフィクション度が強い読み物ですね。
結果論ですが、当時その国学というものは過激な活動の論拠となった嫌いがあってその後の「国粋主義」へと繋がって行きます。思想の発展はかなり無茶苦茶で、過激な輩にそれがまことしやかに流布され、国の方向性と発展してから大陸への侵略戦争の教義的大義となったとも言われています。
それが「万国に照臨する天照大御神の生国である我が国」・・・本居宣長やのちの吉田松陰の言いだしっぺの征韓論ですね。
そもそも明治から昭和にかけての戦争時代の大元の思想でもありました。
よくブログでも記していますが、皇室が神道一辺倒に偏っていたり、戦没者を靖国という神社に一方的に合祀するという方向性はその幕末から明治の名残(皇国史観と国粋主義)であるといえましょう。
昨日も水戸御老公-黄門のフィクション、善懲悪の浪花節的軽快さについてチラッと記しましたが、この水戸光圀こそ幕末国学を盛り上げた張本人でもありました。人物としては辻斬りに遊郭通いと若い頃は「やることはやっていた」という噂もあるようでそうなるとドラマのイメージからかけ離れますね。
なにより藩主時代に領内の寺の半分はぶち壊しているようで、廃仏毀釈の走りとなっています。面白いのは神社でも源家の崇拝社である八幡社に限っては潰しに。
戦国時代では小西行長や高山右近が伴天連布教のために寺社を壊すということはしていますが、寺が目の敵になったものでしょう。
ただし東本願寺系では「願入寺」という寺を再興し手厚く保護しています(現在は「原始真宗」)。
佐賀藩上がりで岩倉視察団の一員だった久米邦武という歴史学者からは光圀が編纂に関わった「大日本史」について「劇本の類」とこきおろしていますが、幕末では尊王攘夷、明治初期の廃仏毀釈の「教科書」的大義として繋がっていったものです。
画像は京都烏丸通下長者町交差点北側の水戸藩亭邸跡(場所はここ)。蛤御門の向かい辺りになります。③画像突き当りが御所。その手前が烏丸通。
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くりくり (土曜日, 03 10月 2015 09:01)
隣市に住むくりくりと申します。 ご造詣が深くすばらしく、興味深く読ませていただいております。
本市は栗田土満生誕地ということで、国学って何だろう、どんな人物だったのだろうという関心から小さなセミナーなども開かれます。
ブログ内にあった油田の囚人の話、 智生寺の話など歴史的に見れば負の遺産でも、しっかり評価、語り継いで行かねばと思いました。
今井一光 (土曜日, 03 10月 2015 18:28)
くりくりさま。
ありがとうございます。
本当に「語り継ぐ」そして「聞く」ことはとても大切ですね。
当山は栗田土満さんの平尾八幡宮近く段平尾に元あった本楽寺が前身です。
段平尾にある「みんだ堂」には当山本尊に似た阿弥陀様がいらっしゃると聞いた事があります。
(拝観したことはありませんが・・・)
本楽寺は高天神城戦では当神社と同様に焼失し、相良に場所を変えたと伝わっています。
「くりくり」様の名もその地に多い高天神崩れの姓が想像できます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。