蓮如さんの地頭方守護方の気配り 世間の仁義 

昨日敬老の日は彼岸中、好天にも恵まれて境内参拝者はひっきりなし。花ガラはすべての袋がそろそろ満杯になりそうです。

相良は毎年恒例の祭典の時節、神輿が引き回されて賑やかな事このうえなし。

 

私は秋祭りのスケジュールにまったく頓着はありませんので、申し込まれたままに法事の予定を入れてしまいます(半年以上前)。ということで午前の法要は小堤山下のハチャメチャに、がなり立てる「唄」なのでしょうか、その大音量の叫び声とお囃子と競演になってしまいました。本堂内で聞いている法要主催者方は大変でしょうね。

 

ちなみに地元相良の方々はこの期間での法事は避けるというならいがあるようです。

 

たまたま付近を通過する救急車、当山に隣接する天理教さんの太鼓の響きも加わって拙僧の読経は、ハナから自信の持てないものではありますが、より一層音程が変わったりしないか、声が届いているのかとヒヤヒヤの時間でした。

クセなのですが、そういう時ついついその読みのスピードが早めになってしまいました。勿論その言い訳も・・・。

 

法要は東京からの参列者が渋滞混雑で到着が遅れているというハプニング付き。時間がかなり繰り下がり、お昼のサイレンまで加わる始末。そのあとは静寂の時間となってホッとさせられました。さすがに祭り参加者もお昼休みがあるものかと、合点した次第です。

 

彼岸の法要と祭りの音は相合わないものがありました。

特に我家では小堤山での打ち上げ花火による号砲はネコ共にストレスを少なからず与えています。あの轟音がするたびに地震の時同様のパニック走りが始まってこっちまで余計驚くことになります。

 

施主方が祭典につき恐縮の旨を仰っていましたが、それは私がそれに参加できなかったことへ口惜しいことと思ってのことだったようです。

それはまったく勘違い。私の祭りに関しての上記のような考えを告げると「一見神輿の先頭に立って祭りで暴れているようなタイプ」と首を傾げていました。

それには「気が小さくておとなしくそもそも下戸。その手のものは逃げ回っている」と。

 

真面目な話、祭りの時は法要もいれず、どこか旅行に行くなどして逃げているのがベストですね。まぁ報道に見るあの大渋滞の中に身を投じる勇気もありませんし、訪問客が多い時節であるというのが困りもの。

時間が押している中、決めていた御文はお気に入りの「二帖の七」(易往無人)、空気を読まずこれはじっくりの拝読でした。

 

さて、この御文の直前の御文は「二帖の六」でタイトルが「掟」です。「掟」という言葉そのものの響きがイイですね。

まったく現代の言葉にはありませんから。

ただし私がこれもよく拝読させていただく蓮如さんが記した『改悔文』(お西では「領解文」)の文末に出てきますのでその発声については珍しくありません。

蓮如さんは当流の宗祖の導いた阿弥陀仏への作法を「掟」と説いて「守るべき」であると、そちらではこう締めています。

 

『このうへは  定めおかせらるる御掟(おん おきて) 

           一期をかぎり  まもりまうすべく候ふ』

 

その他御文の中にもしばしば登場してきます。

「掟」とは「戒」ほどの制約の雰囲気はしませんし、真宗にはそもそも守ることは難しいということで「戒律」の概念はありません。やはり非僧非俗の「法度」としてのイメージでしょう。

 

当時の「惣」と呼ばれた村単位の「自検断」のそれ<惣掟>~そちらを破ったとすれば寄合等の簡易裁判で簡単に死罪になったようです~を思いますが、「宗法」と「私法」の中間くらいのものだったでしょうね。

当然に蓮如さんの「掟」は信心の問題ですので死を以て償うなどの罰則はありません。

後世になって解釈が拡大して破門となったのち死地を彷徨うことはありましたが・・・。

 

「二帖の六」は御文の中で短い部類に入りますのでコピーしますと

 

『そもそも、当流の他力信心のおもむきをよく聴聞して、

決定せしむるひとこれあらば、その信心のとほりをもって

心底にをさめおきて、他宗・他人に対して沙汰すべからず。

 

また路次 大道われわれの在所なんどにても、あらはに

人をもはばからずこれを讃嘆すべからず。

 

つぎには守護・地頭方にむきても、

われは信心をえたりといひて 疎略の儀なく、

いよいよ公事をまったくすべし。

 

また諸神 諸仏 菩薩をもおろそかにすべからず。

これみな南無阿弥陀仏の六字のうちにこもれるがゆゑなり。

 

ことにほかには王法をもっておもてとし、

内心には他力の信心をふかくたくはへて、

世間の仁義をもって本とすべし。

 

これすなはち当流に定むるところの掟のおもむきなりと

こころうべきものなり。

     あなかしこ、あなかしこ』

           [文明六年二月十七日これを書く]

 

蓮如さん御文に記される内容はわかりやすく簡潔に記そうと心掛けているので、私ですら「ぱっと見」でもよくわかります。

ここで特に面白いのは「守護と地頭」の記述です。

 

洛中応仁の乱真っ盛りの文明六年(1474)の記述であることはあの加賀一向一揆のベースとなったこの地方の土一揆の始まりの頃。

この蓮如さんがこの御文を発していたのは吉崎御坊。その3年前に吉崎に御坊を建て真宗門徒がその一揆を主導するほどに各惣村に宗旨が拡大していた頃です。まさに真宗が爆発的に流布されていた拡大期です。

 

そのあまりに早い地方侵食状況と同朋思想の拡大を危惧し、門徒衆に「掟」として「守護・地頭方」には大事にして粗末に扱わないで確りと公儀に従がって欲しいと記しているのでした。

ここに私がブログで何度か記している「地頭方」の語が見られます。仮名がふられていて「じとうほう」と読みます。

やはり「かた」読みより「ほう」読みの方が古い感じがします。

 

蓮如さんの危惧、門徒衆による土一揆の拡大は結局はストッパーが効かなくなって暴走の域に入りますが、上記の如くの内容の御文を頻繁に出しています。

はらはらしながらも一揆を抑えようと「あまり無茶しないでね」という願いと努力の跡を窺うことができます。

 

画像①が御文の「二帖の六」から。②が「二帖の十」です。

「守護方、地頭方」の文言などから当地の「地頭方」という中世風地名の由縁を推して何故か嬉しさをも覚えてしまいます。