今度は九州阿蘇に、日替わり全国天変地異巡りの如し。
災難は「何処に居ても皆同じ」と誰かが仰っていましたがそれこそつまるところ「逃れがたきは無常なり」との一言で了承するしかないのでしょうね。
この文言は私が好んで通夜に拝読する蓮如さんのお文の三帖-四「大聖世尊」から。よって「次は私」と立候補するワケではありませんが、常に何かのリスクを警戒準備しておくことが肝要なのです。
今後何かが起こったあと個人レベルならまだしも公共的立場にある責任者からの「想定外」の三文字は使用禁止にしてもいいかも知れません。あらゆるリスクを想定しての回避処置の考察は不可欠な時代です。
もしその語がエライ人の口から出てしまったら「舌を抜く」くらいのペナルティを事前に決めておくというのも手かもしれません。イザとなった時その文字が彼らの免罪符となっているような気がするからです。ホントはみんなわかっていたクセに・・・という感じ。
法律上たとえばデザインのパクリのような「故意」はアウト。無過失で「知らない」「知らなかった」は、セーフ(無罪)ですからね。保身の言葉となったその言葉、もうクサクサするくらい聞き飽きましたが都合のいい言葉であり、またどこかで耳にするでしょうね。
さて、先日紹介しました豊川を渡りきってすぐ、川がS字に蛇行する上流方向に、吉田城を右手正面にして少々歩くと、高い堤の下に「なぜここに?」と思う墓碑が建っています。
銘に「牧野一族の塚」とあります。
それにしてもこの湿地帯から吉田城(今橋城)を望んだ時、まさに水上に浮かびあがった如くだったでしょう。そして、かつての水害を十二分に想像できる場所です。
果たしてこの墓碑に訪れる意味があるのかないのかわかりませんが、埋もれた墓碑というものがあるのならこの目で見てみたいというのが私と同様の趣味世界にいる方々。ここは参考までに紹介させていただきます。
但し書きを付けるのは墓の建立が昭和33年なのですね。
このタイプの板状の碑は地元の歴史好きの有志がカネを出しあった顕彰碑的なものが多いのです。
銘記された語が「吉田城牧野一族の塚」です。
疑問としては①牧野古白が築いた「今橋城」が前身であるにも関わらず、「吉田城」としていること②「一族」と漠然とした名と記したこと③は前述の昭和33年建立ということです。
②「一族」の件、牧野氏は宝飯郡を中心に、一説に地頭→国人領主→徳川配下を経て大名にまでのし上がった系統ですが、その子孫はどれも栄えて、多様な系統に繋がっています。そこのところに「一族」という標記はあまりにも曖昧すぎますね。
しかし半世紀以上前に建てられた石碑のその経緯については不明ですが、もしかすると地元に伝わる何か、それらしき伝承がそちらにあって、新しい碑を建立したということも考えられますので何とも言えませんね。
地元の人が「今度町内会でこちらの草むしりをする呼びかけをしたい」と仰っていましたが、やはり石碑を建立した先達の意思に敬意を顕わす意で、「案内板の一つもあれば親切ですね」などと余計な事まで言ってしまいました。
別件ですが豊橋市の教育委員会が出した吉田城の案内がありましたのでこちらに。
塚の場所はこちらになりますが、堤上の道を行っては辿りつけませんし、吉田城側からは右折できませんので、一旦左折してから右折して道路の下を潜り土手に上らず左折します。
とにかく墓碑前の電柱に住所(下地町字神田167)が記してありますので、その通りナビに入れれば連れて行ってくれるでしょう。
気になる地名としては「神田」ではありますが。
平将門首塚でも記しましたが「神田」は「からだ」からの説があります。
牧野家のどなたかがこの川っぷちで斬首でもされて、胴体が埋葬された場所と敢えて考えれば「なるほど」と思います。
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