豊川(とよがわ) かつてこの川も氾濫の代名詞

昨朝の調布の最大震度5弱にも続けて驚かされました。天変地異の連続を感じます

当地は震度1程度でしたが、「ネコセンサー」の感度が良すぎて叩き起こされました。

 

さて、河川氾濫の脅威をライブ映像含めて重ねて目に焼き付けられた数日でした。

治水灌漑は何処の国に於いても最大のテーマですね。

特に我が国は急峻地形と狭い平坦地に流れる河川によってその住環境と稲作の収穫維持には絶対条件です。

不安定な天候下(梅雨と猛暑と台風と秋雨前線の停滞)において国力(経済力)を付けていくに権力者が一番に気にして手掛けるべきところです。歴史的に見てもあきらかです。民からの評価はすべてそこが基点でしょう。

 

濃尾平野の「輪中」や戦国期以降の強大勢力動員によるもの、武田信玄による釜無川の「信玄堤」、秀吉の太閤堤からその技術を使用しての「水攻め」用の堤作りなどを思い出します。

逆に言えば治水ができてはじめて民から為政者として認められるのでしょうね。

そういうことで、いまだあの手の水害について「想定外」の3文字を使って、堤防作りを進められなかったこの国のお粗末振りを露呈してしまったその能力のあり様というものを感じます。ハッキリ言って堤の建設は国のやるべき仕事です。

 

日本は古くからこのような水害との戦いをしてきた国民ですね。それは高所から低湿地帯に利便性を求めて降りてきた歴史なのですが、「水を求めて低地に降りて溢れる水に沈む」の繰り返しに生きてきたということでしょう。

人口も増え、低地に定住するという習慣は、並行して為された治水工事のおかげなのではありますが、やはりこの手の災害への対処はあくまでも「確率」が重んじられるようで、「危険である」と学者の提言があったとしても往往にして後手後手の対応となるのでしょう(危うそうな箇所から順次・・・)。

まだまだ未着工の「堤不全」の箇所があるようです。

「人命のため」と称して、他国の戦争を応援にいく(人を殺しに行く―殺されに行く)法案が通過してしまうことは、もうどうしようもないレベルまできているようですが「人命を守る」という意味では古来からの政(まつりごと)の代名詞の「堤」は民の生活と命を「包む」という意もあってそれこそが喫緊の課題だと思いますね。現実こそあの様です。

 

さて、三河の語源は「豊川、矢作川、男川」という三つ大河が狭い平坦な場所に流れる国(三州→参州とも)といいますが、この地を治めていくことはまさに「河川を治める」に等しかったでしょう。

松平家の岡崎なども矢作川の氾濫には手を焼いたことは明らかです。画像⑧⑨は江戸期のものですが、その氾濫箇所が記されています。

 

豊川といえば矢作川ですが、今橋城→吉田城などまさに豊川の川っぷち。

川は城の防御性をアップするために堀としての効果は絶大ですが、ひとたび氾濫すれば城下は水浸し、酷い事になったでしょう。

ここの治水は始めから「豊川は氾濫するもの」との解釈がなされて前もって水を溢れさせてもいい場所、「破堤」の感覚ではなくて元々堤を切って(開けて)おく「霞堤」を上流に作っておいたということが特筆もの。

逆らえないものへの開き直り的、苦肉の策があったのでした。


当然にその部分は水が溢れて、すべてが台無しになったとしても、限定的。その代わりに重要地点である城下は守られるという算段です。今、堤の嵩上げばかり考えている私たちに「眼からうろこ」の発想でした。

後世そんな無茶は通らなくなったということで作られたのが「豊川放水路」です。この地を通過していて「豊川を2度渡る」ような気になる由縁です(場所はここ)。

地図を見れば一目瞭然、直線の方が人工のバイパス水路となります。

 

「豊川」の「とよがわ」の濁音には初めて知って驚きましたが「豊橋」を「とよばし」と読んでいた時期もあったようで・・・。

「豊田」は「とよた」と濁りませんがトヨタの創始者「豊田」は「とよだ」ですね。まぁどうでもいい部類ですが「水海道」は「みつかいどう」でしたので日本語は難しい!!。

 

吉田城近くの豊川にかかる吉田大橋(国道1号線)の元祖は酒井忠次による土橋だったとのこと。それまでは橋らしきものは無かったそうで、浅瀬狙いの徒歩の様。

それだけ穏やかなせせらぎと猛烈な濁流の両面ギャップがあった川だったようです。

人はその安定期の自然を目にすることが多いため、それらの本質を忘れてしまうのでしょう。

そういう意味では前述の予め開口部を開けておく(力を分散する)という方法は一理ありますね。

 

その後播磨に入る前の池田輝政の時代に木橋が整備されています。思うに「タラレバ」・・・彼がここに居続けたとしたら、今の姫路の威容は無かったのかも知れません。