柳田国男 地名の研究 さわり

当地の地震やら大雨、台風に私が泣き言を晒していると、まったく予想もしなかったような場所からあの唖然とさせられる画像が飛び込んできました。

「そういうこともあるのか」(メカニズム)と驚かされました。

 

知多半島を上陸して日本海側に抜けた台風と低気圧はわが町には好天をもたらしました。

朝から蝉がラストスパートの如く一斉に泣きだし、おかげさまで懸案の「外仕事」に着手できたことを喜んでいましたが、その台風崩れの低気圧に向かって太平洋からの湿った空気を含んだ雲の流れは同じ場所を一筋に列を為して北上していました(線状降水帯)。

たまたまその場所を長時間にわたって通過していたということが要因とのこと。

 

クタクタになって部屋に戻ったあとは床上でひっくり返って昼寝。1700頃にテレビを点ければ、あの3.11の津波を彷彿とさせるような画像が飛び込んできました。

早朝から気象庁発表やら栃木・茨木などの自治体の発表とニュースで大雨について「尋常でない」ことを伝えていたことを思い出しましたが、あれほど酷くなっていることなど想像だにできませんでした。

被災した方々は勿論日本全国あの画像はショッキング、想定外だったでしょう。

避難指示は出ていたもののこれぞ「まさか」の心境だったと思います。本当に大変な事です。

 

さて民俗学でお馴染みの柳田国男についてはこのブログでも何度か記しています。

氏より膨大な書籍を寄進していただたことから学校の図書館に「柳田文庫」が併設されたということも。

当時学生たちが3日間かけて2万冊をリアカーで運び込んだと言われています。おかげで私も彼人の功績やその名そのものも耳に親しんで時に書籍に目をやるようになりました。

 

その書「地名の研究」に「耳」について触れているところがあります。

 

「ある一つの土地の名の起こりが、古ければ古いほどそこには文字を知っている人は少なかっただろう。そしてそこに住む者の全部が承知しなければ、地名などは行われる(呼ばれていく)ものではない。どんな気のきいた字で書いておこうとも、多数が読んでくれなければ、地名として通用するはずがない」

 

ということで要するに「文字化」されるまでにはかなりの時間の開きがあったということです。

 

元の地名の例を挙げていましたが福島は「フクジマ」と濁っていて、東京の秋葉原などは明治初年まで「アキバガハラ」と。

今の若者が通称「アキバ」と呼ぶ秋葉原、むしろ昔ながらの名称の方に近かったのでした。

 

地震と津波の歴史からその警戒を代々に渡って伝え聞いている当地区、「波津」の人々はその地名が世界的な名称ともなった「Tsunami」の漢字「津波」を逆さまにして記憶に「留めようとした」と言う人が居ますが私はこの説を取りませんしこの「逆さま」そのものに対して恐怖を増幅させてはいません。

他所から来て初めてこの字を見て驚く人もいますが・・・。

 

明応七(1498.9.11)の明応地震の被害について宗長日記に

   「この津、十余年以来荒野となりて

            四五千軒の家、塔あとのみ」

という箇所がありますが「この津」とは三重県津市(安濃津)のことです。

宗長は各地を歩いて連歌ならず、色々な情報を各地に伝えていますし、各地の支配者層に文化人として絶大な支持を受けていた人と言っても過言の無い人ですから、彼が「津の波濤」→「津の波」と伝えたものが「津波」となったという説もありますし、津とはそもそも穏やかな湊のことですので、単純に平穏な湊が波に襲われて「津波」と呼んだのだというのが自然だと思います。

 

柳田国男によれば、文字そのものを反転させて伝承させることが意味として成立しませんね。

耳にして、言葉に発したものが伝わって・・・ある時、文字になるのです。

 

実をいうと柳田はこの説のあとに「水海道」(みつかいどう―みず×)の語源について語っていますが、この語は水路(船の街道)の要津(ようしん)―重要な場所―というよりは御津海道(みつかいどう)村と古い書面にあることから時代の変遷によるあて字であろうとしています。ただし湊、津があったことは確かですね。

 

その「海道」の読みから派生した字面は各地多様に残っているそうで大元は荘園以前の呼名「かきうち」「かきつ」が「垣内と文字化され、「垣外」(かいと)へ派生、別系統で「かいど」「かいと」が街道、開戸、替戸等々があるそうです。

 

当地比木の筬川に架かる開戸(かいと)橋や中村山砦近くの高天神城へ舟路登るための湿地帯に海戸(かいと)と呼ぶ地名が残っています。たしかこちらにも海戸橋が架かっていたと思います。

これらには当時良好で静かな湊があったのでしょう。

 

水海道の近くの「布川」という地に柳田は住んでいたことがあったそうですが、こちらの近くに流れる川が「布川」であり別名「絹川」、現代の名で言えば鬼怒川ですね。

本来の「布と絹」を河川等に譬えれば「べた凪」「穏やか」です。そこの「水海道」ですから良好な津(湊)があったということが推測できます。

「鬼が怒り狂う川」と文字をあてたのは後になってからといいますが、自然の二面性というものがわかります。

命名はたまたま後者の方を強調した例ですね。

実際に頻繁に牙を剥く歴史があるようです。

 

そもそもあの川は利根川水系で、そういえば家康の利根川東遷事業というものを思い出します。

湿地帯の江戸をできるだけ環境のいい平地とするために上流で河川の付け替えをしています。

その付けたり貼ったりが可能ということは、地盤は比較的平坦で川は穏やかということなのですが、裏を返せば関東平野はどちらでも川になり得るということでもあります。

 

穏やかな湊の漣(さざなみ)、「波津」が突然に牙を剥くということがあるということです。ここでも記しますがとても良寛さんの災難の味わい方の境地にはいたりません。