「一円」と「中分」中世古(いにしえ)の史的名称

昨日記した「下地」には極端に言うと一つの土地に何重にも権利関係が重なって複雑化していることは珍しくありませんでした。

開発領主の寄進対象が別々の区分けであったり、「本家」や「領家」が経済事情によって分割したり「押領」によって訴訟化していたり、様々な理由があったでしょう。

今でいえば一つの土地にたくさんの抵当権が付いているようなものでしょうか。

 

ちなみにこの「押領」は意味が2つあって

①は荘園時代に地方の治安維持警察権を持った役人(令外官)として任命された「押領使」がありますが、これらも昨日記した「戦国化」に一役買った「武装した土豪」のベースにもなったでしょう。後世、「藤原秀郷流」の出自の名のりをザラに耳目にしますが、その名はやはりステータスで、その「押領使」として関東にて平将門を滅ぼしています。

面白いと思うのはこちらは地名というより苗字として残っています。九州に多い名で「押領司(おうりょうじ)さん」。

御先祖さんを思い浮かべてしまいます。

 

②は現代の「横領」と同じようなもの。「押領」は土地(「上分」含めて)に限定ですね。そもそもは中央の権威がある場合、やはり違法であって、禁じ手(御成敗式目-四十三)ではありましたが、地方の有力者の力関係(財力・武力)に格差が出た場合その土地の収奪は当然の如く横行しました。

 

ということで「押領」というとイメージとしては①②のことを含めて「強制執行」「実力行使」「強行制圧」という感じを受けます。

 

また、私のハンズ時代に「門田」さんという方がいましたが、この苗字も結構「史的」、これは本来屋敷前の私的(自分の所有)良田のことで在地領主(土豪)の「免田」として彼らの領地支配主張の根本既成事実としたものです。ちなみにその屋敷の周囲に掻き揚げて作られた土塁から「土居」さんの名、そして堀の内側、「堀之内」(この場合、地頭の屋形の意?)は菊川駅近、昨日の「半済、本所」から遠くない場所に地名として残っています。

考えると菊川は中世地名がよく残る場所ですね

 

「免田」さんという名も地名もありますが「免田」とは租税の部分的あるいはすべてを免除する田のことです。

もともとは発給許可権者は国、「本家」クラスが自らの収入分を担保するための苦肉の策、要は自分の荘園からのアガリ(特に雑役)を非課税にてしもらえるという相当勝手とも思われる特例。

 

誰もが羨む特例法はなし崩し的に乱発され、また統一性も無く荘園内はまだら模様の有様、国司の権威が強くなると国司が諸役免除の特権を得るようになり(不輸・不入の権)徴収した税は当然の如く自分の懐に入れ、雑役は自分の為に徴収(使役)するという状況が進んで行きます。

 

当時の農村、百姓は相当大変だったと思います。

何しろ税金を徴取要求する権威者が重複して居たわけですし、色々な理由を挙げては強圧的に税を徴収しようと狙われていたでしょう。

それらに対して農村の意を汲んだ土豪・国人が農村をまとめて、租税の支払いを拒絶し一揆(国人一揆)として自治化していったのも戦国時代の布石となっています。

 

荘園期でも鎌倉期にはそういった複雑な権利関係をできるだけ解いて開発領地を含むすべての領地について他者の権利を排除していこうという動きが当然の如く出てきますが、それを「一円支配」(一円知行)という表現を使いました。

領地内一色すべてが「自分のモノ」のイメージですね。

「一円」とは「一つの円の中の全部」ですから「他者権利交錯するまだら模様」にはならないのでした。

 

鎌倉期の地頭レベルとなると「下地」の獲得はもとより

「上方」の知行をも手中に入れようと奔走しその領地一円の支配を目標としました。

この「一円」という語も現代にも散見できます。滋賀県彦根の近く、犬上郡多賀町一円という地番と周囲には「一円さん」が多数いらっしゃいますね。

 

昨日①資産・財産として保有する「名目上の所有者」(領主)と②現領地として所有者(地頭)は「並立してない」と記しましたが初期は上下関係があったからですね。

ところが力を付けた「地頭」らに「領主」は談合によって「下地」をある程度の割合で分割する(「中分」)ことを模索したのでした。

これは地頭の横暴は御法度と決められていても鎌倉御家人としての幕府からの安堵を後ろ盾にした「好き放題」は訴訟対象とはなりましたが、有耶無耶となることも多く初めから領主側が地頭に譲歩して「手打ち」にしておいた方が都合が良かったという点があります。

 

よってこれを「下地中分」と呼びますが、前述の「並立」はこのための私の形容でした。

喧嘩っ早くて刃物を振り回し理屈の通らなそうな人間(地頭―武士)とまともに交渉しても埒があきません。「泣く子と地頭には勝てぬ」と昔からいうようですね。

それなら最初から租税の徴収権を与えて働いてもらい、取り分を決めておこうというものでしたが、地頭はその徴収権(地頭請)を与えられたことからさらに勢力を増す(ここでも手数料が入る)ことになり、結局機会あればその租税の上納をも遅延させたり未納にして、強勢化していきます。それが室町期に「国人」へと変わっていったのでした。

 

画像は薩摩国日置北郷下地中分絵図(1324)ウィキより。

下地中分は西国に多いですね。相良から人吉に下向した相良氏の如く「新補地頭」が多かった場所です。図面にはしっかりと「領家方」と「地頭方」の領地に線引きがされていますね。

また一つ画像は牧之原市「地頭方」辻。

この地は江戸期に入っても今の御前崎村と一所(白羽村を超えて飛び地)で相良藩とは違う管理地でした。相良藩知行地の中にはこの地頭方村は出て来ません。

新野が一部相良藩だったこともそうですが、この件も少しばかり驚いたところです。

 

ところで昨晩からの地震は不気味です。

22時08分の震度2から始まって22時23分震度1 23時27分震度1とたて続け。震源地は御前崎沖。毎度のことネコ共がパニックを起こします。どうか収拾してくれますよう。