昨日記した浜松城の前身、曳馬城について。
浜松城へ行ったらこちらからの歴史も知っていただかないと完全ではありません。昨年には発掘調査が行われていますがその後は目の前の通りは通過するものの久しく顔を出していませんでした。
かといって何があると言われても幾度行ってもそう代わり映えはしないのですが、今回訪れると新しい看板が立てられていました。
浜松市の方も「浜松」以前の古色漂うこの古城址をしっかり紹介しなくては・・・という気持ちになったのでしょうね。
元来のこの地の名が「曳馬」(ひくま)でしたから。
掲示板は静岡文化芸術大学の磯田道史教授によるもので今年の1月に立てられたようです。
曳馬城は昨日も記していますように現浜松城の目と鼻の先。
念のため、場所はこちらになります。
訪れてみてこの城の残存遺構の少なさと狭量さに気が抜けるでしょうが、こちらの城があの三方ケ原の敗戦の「その時」を迎えた対武田信玄の城なのでした。ということで古城巡りの本筋はこちらから。現地名の「元城町」というのもそのことを示唆していて情緒あります。
曲輪の北側にある玄目口(玄黙口
元目口)という場所が家康が三方原から供の武将をも振り切らんばかり脱兎の如く、這う這うの体で逃げ入った城門の場所ですね。
周囲より少しばかり「高い丘」程度の感じで、それだけ見ればいかにもコンパクト。
現在はかなり周囲縄張り遺構は開削されて道路や住宅と変わっていますが、この「丘」(現在は東照宮)の周囲、特にこの玄目口からの路地にも見える高低差は城の遺構に関わる風情が臭いたちます。ちなみに家康はあの時、門番に訝しく思われて簡単には門に入れなかったようです。
発掘調査後は社殿入口一部分と玄目口側の土塁推定の溝地を少々掘った程度だったそうですが、夥しい量のカワラケや明あたりか大陸からの染付皿の出土があったとのこと。カワラケは儀式や儀礼的饗宴に使用される土器皿で終われば使い捨てです。よってどちらの城跡でも大量に出土していますし、的確に時代を推定する材料にもなります。
こちらの古城の下の方のが興味が湧きますが、周囲は民有地ですので、単発的に建替えの話でも無い限り調査は難しいでしょう。
最後の画像は市役所側から道路を渡っているところ。
左側の大きい建物がコンコルドというホテル。
その道路を隔てた向かい、画像右側のアパートの裏にホンダのディーラーがありますがその裏が曳馬城跡。
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