「怒り」瞋恚 ブチギレの標 あのデザインは?  

17日は小雨と豪雨が交互に・・という悪天はまさに久し振り。

既に「秋」を感じますね。昔の人が決めた残暑見舞いの目安である「立秋」とはよく言ったものです。また気がかりな台風が太平洋上に、こちらへ向かっている様。

18日は日没後の外出時に思わず「涼しい!」と。

 

私は16日の日曜までは殆ど寺に貼りついていたことから、「さあちょいと心体を、また足も延ばして・・・」という雰囲気でいましたのでこの17日の荒天はかなりのガッカリ感でした。

その日は「墓道」を彼の母親の病院に届けたのち一緒に東の方向を目指す予定でしたが、あまりの悪天候パンチを受けて中止、病院を出たあとは何となく走って焼津駅まで彼を送り届けました。

 

車中の会話は「怒り」について。

双方天気が悪いとつい怒りっぽくなってこの時はまた大層「愚痴」も出ましたね。ドラマでの竹千代は「腹が減ると」でしたが、飽食の時代の我らは「天気」の良し悪しでした。まぁどうでもいいことにプリプリしているバカバカしさです。

 

以前どこかでも記していますが「怒り」は仏教世界では「瞋恚」(しんい しんに)と言い、他の「愚痴」「貪欲」と併せて人間の本質的に持つ克服しなくてはならない「三毒」として捉えられています。

ブラッド・ピッド「セブン」(七つの大罪)でその七のうちの一つ、「憤怒」として挙げられていましたのでキリスト教世界でも人の「罪の源泉」である煩悩としてのそれを感じたものです。

その際、この「七」という数字へのこだわりは仏教への関わりをも考えたものでした(初七日 7×7で四十九日 七が仏でそれ未満は六道輪廻―地獄・・・6はダメ 666「オーメン」等)。

蛇足ですが7月の施餓鬼という仏教界の断食風習(盂蘭盆会)などはイスラムのラマダンにも似ています。

 

以前「歳を重ねると怒りっぽくなる」と記していましたが、私たちは若い頃はいつも怒ってばかりいたような・・・「若気のいたり」という弾けた自己主張は社会人・・・オトナなのだから「何でも当然」と息巻いていた時代がありましたね。

「クレーマー」と見紛うような怒りを噴出した覚えもありました。

 

ただし私の場合、最近は外への怒りは滅して内なる怒りが主。

お恥ずかしいことながら時折いまだ昔の怒涛の如くの怒りを息子へは向けますが・・・(怒り狂った後に反省)。

ただしこれから私がどうなるかわかりませんがただただ「怒りっぽい爺さん」にはなりたくないですね。

 

「怒り」というのは怒り出すと自分がコントロールできなくなって過去の相手の失態についても次々に複数思い起こして無意味に増幅していくといいます。

その増幅分など、「怒りにはまず理由があるが、マトモな理由は滅多にない」と言われる所以です。

 

ということで「怒らない」方がいいのです。今の若者が「怒らない」ことに「怒っている」大人が居ましたが、怒らない仏教的解決能力ということで評価したいところです。

では「怒られちゃった」場合はどうしましょう。

相手が「怒り」をこちらに向かって「覚えた」ということですが我々は往往にしてその相手が思う「怒り」に鈍感ですね。

要は反省したくないのですが、怒られ方を知らないというか、相手の怒り、クレームに対しての対応能力が欠如しているように思います。

まずは前述したように対応のパターンとしては

①そもそもその向けられた怒りというものに正当性が欠けてい

 るということを主張します。

②よって謝罪と反省は無しで、とぼけて放置しようとします。

③当然に相手の主張とこちらの反論が噛みあわず問題が複雑化

 して喧嘩状態が長引くという結果なります。

 

「喧嘩」といえば人聞きが悪いですが、一旦「法廷」にその問題が提起されてしまったら証拠と論理の正当性を相互にその土俵にあげて「論述と口頭の喧嘩」となるといっても過言ではありません。ただ殴ったり蹴ったりはしませんが・・・。

民事では絶対的に裁判官は「和解」と言う形で手打ちの方向に持っていこうとしますが、その互いに主張する「正当性」とやらを「証拠と客観性」のみによって判断し、マズは発生した損失分について「カネ」で解決させるというのが「法廷」ですね。

 

あの世界中に面目が付かなそうな五輪のエンブレム問題はいよいよ収拾がつかなくなる雰囲気で見苦しい始末を呈しています。私としてはニヤっと笑って見守るばかりですが、一言言わせていただければ交渉が下手。

何もそこまでこじらせなくても手の打ちようは他に無かったのか甚だ疑問です。法廷に担ぎ込まれたというその問題の「こじれ方」(世界中にドタバタが広まる) を問題とすべきなのです。

 

まず相手があってこじれそうとわかったら反論するだけが本論では無いということですね。ここに大会組織委員会にはデザイン選定したという権威、プライドと落とし前、責任の回避という精神が臭ってくるのです。そこが見えてきて恥の上塗りになっていることが気づいていないということが痛烈なのですよ。

 

先日息子に怒りの矛先を向けたのは、ある早々に時間が迫った件を目前にして息子が母親と「依頼を約束した―一切聞いていない」の言い合いを傍観してのことだったのですが、それはただの自己主張のみ、問題の解決にまったく向かっていないことを感じて腹立たしく横槍を入れたのでした。

私は①問題の解決能力の欠落と②今すべきことは一体何か

と怒鳴りました。エスカレートして昔の似たような事案を持ち出して怒りまくりました。

 

その事と同様で、相手は「盗用」(コピー)を主張、こちらは(断固として)「違う」とまた主張するのみ。そこへきて日々続報が入りあのデザイナー氏の主張も相当雲行きが悪くなってきました。法廷に持ち込まれた場合「都合の悪い証拠」がたくさん出てきたということで「不利」の様。

当初のベルギーだけでなく、アメリカのデザイナーの作品もまったく同じの如くで、コピーペーストとしか言いようのないデザイン、怒るのは当然のように思えます。そして昨日あたりではコスタリカの博物館のデザインと同様と証拠が噴出してきました。

 

組織委員会は意地など張らず「ごめんなさい」して「再選考!!」と一声言えば一件落着。それとも胡散臭そうな盗作疑惑が次々と出てきたあのデザイナーさんと心中でもするのでしょうか。

今のうちなら組織委に瑕疵は無いのです。

意地を張るからみっともない。もはや、「やった-やらない」のレベルにはありません。あまりこだわっていると「裏に何かある」と勘繰りたくなるのが庶民感情でもあります。

 

しかし、デザイナー氏のギャラってナンボ?とちょっと下世話な事も考えてしまいます。

世界中に溢れている商標・デザインを網羅するソフトもあるそうで、大抵のプロならそちらに目を通すとのこと。

ちょいとそちらから拝借してコピー(時にアレンジ)したものが「スバラシイ」など褒められすかされ、晴れて商品等のイメージに採用される、それが歴とした職業となるのでしたら、かなり「ボロイお仕事」ではあります。

 

五輪の組織委員会のお歴々のオトナの決着があるのか見物です。いろいろ五輪主体以外のところでとりまきがお騒がせしてくれますね。

開催能力の有無まで遡りますか?

 

画像は毎度注目のゴミ入れの掲示板(前回はコレ)。

②も既出「恕 じょ」。わが心の如し。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 19 8月 2015 08:53)

    喜怒哀楽があって「人間」
    いいじゃあ ありませんか。私も同じです。
    聖人君子ではありません。
    たまにはアドレナリンが出て人間たるを知る。
    今年の芥川賞のスクラップアンドビルドにもあるように
    年よりは、甘やかすばかりでは死に近くなる。
    「ほどほど」はむつかしいです。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 19 8月 2015 15:09)

    いつもありがとうございます。
    息子は怒られてもスグにけろっとして何も変わりません。
    バカというか、それはそれで有り難いことだと思っています。
    逆に息子が怒るところをあまり見た事が無いほどです。
    本当のバカは私なのかも知れません。
    それにしても芥川賞作品を既に読まれているとは・・・
    また教えてください。