久能山やら日本平と言われる高台の東の端、清水港に向かってミカン畑が広がる斜面があります。
一日の初めからお昼過ぎまで日照のいいとこ取りのミカンはさぞかしうまそうな感じ、私なら「清水杉原山みかん」というブランドなど立ち上げて宣伝したら面白いのかな・・・などと余計なことまで。もうすでにあったらごめんなさい。
なぜにそう思うかといえば、このそう高いとも思えない(50m?)「杉原山」の東斜面から望める景色は清水湊のみにとどまらないのです。ここのミカンたちはその向こうに富士山を望みながら育つのでした(場所はここ)。 鉄舟寺を出て北上、「上力町」交差点の手前の細い路地を左折します。ただし車両停車場はありませんのでご注意。
この杉原山というのは実は知る人ぞ知る地元夜景スポットだそうで、清水の街並みの灯りが売りとのこと。低い山ということで気軽さはありますが、まるで私有地の如くの道で通行は遠慮気味、そして細くて道悪、当然夜間となれば足元不明でリスキーなチャレンジとなりましょう。何しろ藪通過は夏場はちょっとキツイかも知れません。
画像は5月頃のもので、富士山には雪が残っています。
夜景もキレイでしょうが冬の晴れた午前が一番のおすすめでしょうか。
徳富蘇峰の顕彰碑が建てられていますが、蘇峰はここからの景色を楽しみ、彼の言う絶景の一つとして数えたそうです。
蘇峰は徳富蘆花の兄でいわゆるジャーナリストのはしり、戦争賛成(膨張主義)を称えて政界入りしたり政治家との癒着が著しかった人(といっても交流は広範囲―知識が人を集わせる)ですが、「売国奴」と罵られたこともありました。遠慮なく、人の目を憚らなく自身の意見を発した結果ですね。
現在その手の言葉を吐く人の品位の無さを感じますがこれは当時の国民全体に「無知の自利」が蔓延していた時代であって、これが後の太平洋戦争へ突入させる政治家・軍部の原理的後押しになったものだと思います。
この罵り言葉は日露戦争後の小村寿太郎代表が合意締結したポーツマス条約について当時徳富蘇峰が主宰していた國民新聞が焼き討ち(日比谷焼打事件)に遭っていますが、これは蘇峰が講和条約に賛成したためですね。
要は国民は「勝ったのだ」「もっとよこせ!!」「交渉は生ぬるい」と叫び、動的行動とアピール、背後の誰かに扇動させられたものでしょうが結果襲撃騒乱へ発展したのでしょう。
歴史家としても名のある蘇峰は
「図に乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけない。 引き際が大切なのである。」と日本の古(いにしへ)を引き合いに、説き、論したそうです。
石碑には彼の絶賛の富士を
『日夕雲烟往又還、青宵縹渺是寰
名山不作不平色、白髪昴然天地間』
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