最近の私ども仏教界の切迫した話題というか、こういう現実と将来の不安を惹起させたのも私たち仏教寺院の怠慢からだという反省というかどうにも止まりそうもない流れへの焦燥感の理由はハイそう、それらです。
江戸時代までの檀家制度が崩壊してスグ、政府から廃仏毀釈という負のダメージを提供されてから・・・
①「仏教」以外の宗旨への開放②雨後の竹の子状態の新興宗教の発生とその営業力③坊主の怠慢④故人供養と葬式のためのみの仏の教え⑤上記から嫌気をさした人々の菩提寺不要論と批判的意識の蔓延⑥人口絶対数の減少⑦墓地不要論の発生⑧葬儀不要あるいは規模縮小の雰囲気 等々によりこれまでの檀家さんがどんどん減って経営不能に陥ったお寺から次々に坊さんたちが逃げ出しているとのこと。
地方では「3ケ寺かけもち」の如くの住職などザラのようです。
かけもちでも誰か管理者が居ればイイ方で、地域住民による管理の廃寺など多く出現しているようです。
そういう意味からすれば拙寺の状況はおかげさまというか、うまい具合にやらせていただいていますので本当に有り難いことだと思いますが・・・。とにかく「寺」=「葬儀と供養」のイメージはぶっ壊しておかないと寺の将来は「ひょっとして無いのかな」とも思うところです。
やはりまた寺も「サービス業」というくくりに、もはやなったのかも知れぬという疑念に陥っているところですね。
現実、お釈迦さん死後2000年を経て今は「末法」の世ですが、仏教の衰退傾向は今に始まったことではありませんね。
南都六宗から平安仏教(天台・真言)、そして平安仏教が衰微し鎌倉仏教と時代ごとに仏教が新しく進化していく過程でそれぞれの旧仏教世界にいる者はその「末法感」と焦燥感を味わったことでしょうが今の状況とは違いますね。
そしてまた、江戸期以前の仏教世界としては今の様に「葬儀」と「追善供養」「墓地管理」に特化されたような形態では無かったはずで、経営基盤としては権勢ある有力スポンサーの存在とその栄衰に左右されたはずです。また大地主としての徴収物(年貢) もあったでしょう。
さて、大御所でお馴染みの久能山。
古くは久能忠仁と言う人が建立した御堂があって、奈良時代に行基が来て久能寺という寺を建てたといいます。その後天台宗に改宗、その流は大きく開花したそうです。
そこへ駿河侵攻を果たした武田信玄永禄十三(1570)が久能山に久能城を作るということで山の東側に宗旨まで変えられて(真言系)移動させられました。それでも江戸期は駿府という場にあり庇護を受けられましたが幕府の状況がひっ迫する幕末になって住職不在の荒れ寺になったとのこと。
そこへ駿府にやってきたのが山岡鉄舟。この寺に住職を入れてその名も「鉄舟寺」と改めさせたのでした(場所はここ)。
歴史の古い寺だからなのか、寺所有の経典等文化財多数。
植木屋さんが入っていて、お昼休み。バタバタ境内で寝転がっていましたので、さりげなく庭の中を覗くと鉄舟の銅像と目新しい墓石が。
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