お盆の季節といえば自坊に居ても外をブラっとほっつき歩いても色々な「縁」と出あいますね。
境内で建具屋紛いの仕事を軽トラの上で行っていれば、私の失念でしょうが、何処の誰だかまったく不明の参拝者と挨拶することが多いですね。家族連れのお墓参りの方に当方より元気に挨拶すれば、「妙に気安い大工だな」風の顔をされて引き気味にされること多々。「まぁそんなものだろう」と本日は境内作業はやめて午前の法要後は御前崎へ。
「墓道」の母上様が遠州は東海道沿線の病院に入院したということで「昼飯」と2003年に亡くなった友人の墓参りを兼ねたその送迎役に。御前崎実家の彼は車を所有していませんので・・・。
御前崎港がザワついていることに気が付いて、まずは港に向かいました。すると「海王丸」という帆船が入港直前のタイミングでした(→静岡新聞)。
御前崎入港が5年ぶりといいますが、丁度その時には私の母親を連れて観にきたことを思い出しました。現在母は掛川の施設にお世話になっていますのでついでに彼と一緒に顔を出して来ました。時の流れは本当にあっという間です。双方とも父親を亡くし、トコロテン的にいえば次は母親。そして・・・と。
さて、帰り際に墓道より「高天神のかき氷」のリクエストがありましたので、登城前に中島屋さんに寄ってかき氷を味わっていこうということで話がまとまりました(これも静岡新聞)。
ところが喉をカラカラにしてお店に到着すればシャッターが閉まっているのです。
「お盆休み?」とガッカリ感100%、それでも駐車場に車を停めて、自動販売機の前でごそごそしていれば、店主の奥さんがたまたま出て来られたので「かき氷食べに来たのに・・・」と言えば「店終いした」と。
嫌味になってしまったであろう無礼と何故?という単純な疑問に呆然としていると今年2月に店主が急逝したとのこと。
詳しく聞けば昨年末に不調を訴えて年明けに病院に診療を受けるも診療科の選択を誤ったか経過様子見2週間、その後精密検査を受けた結果、既に重篤、難しい状態になっていたと。
奥さまは「本当にあっという間」だったと坦々と仰っていました。61歳とのことでした。
恒例3月末に開催される高天神城祭りへ出店されていることを存じ上げていましたが、それについて伺えば、ただただそれへの出店を楽しみにしていたそうでした。
考えるにその間何度かこの通りを行き来していましたが、お店はやはり閉まっていたような気がします。お向いの鷲山さんという酒屋さんも跡形もなくなっていました。
かつてこちらは「土方銀座」と呼ばれていたそうです。
驚いたのはその奥さんが私に向かって「あなたは高天神の?」と聞いてきたことです。一緒にいた「墓道」も意味不明で何のことやら・・・
ここのところ夏場はかき氷を食べにこちらにお邪魔していましたが、1年振りです。
私が一番最初にお店に入った時、御菓子のショーケースに入っていた地元、土方の史家、藤田清五郎氏の書籍「高天神の跡を尋ねて」が目に留まり、売りものかどうか伺ったことがありました。
確か2冊置いてあったのですが、そのうちの1冊を譲ってもらっていたのです。そのやはり海王丸と同じくらい前の出来事を覚えていていただいたということですね。
その後店主は最後の1冊を大切に店のショーケースに入れておいたそうですが、「主人はもう必要は無くなったから」と私に「どうぞ」と。形見分けをしてくれたのでした。
私は相良の寺の者で高天神城好きでこの辺りにはちょろちょろ出没していることを伝え、そしてよく聞けば「高天神城最中」等のお菓子の箱は当山近隣で檀家さんの岩倉箱屋さんから求めていて、そちらの主人とは飲み友達だったと。
本当に人と人の縁というものはどっかしらで繋がっているものだとこちらにても感じた次第です。
夏の高天神城丹波曲輪へ向かいましたが、草ぼうぼうで即リタイア。ビーサンと短パンという恰好はいかにもこちらを嘗めきっています。山城は冬に限りますね。
と言いながらも檀家さんでカメラマンの池田さんからメールが入りましたが昨日、長靴と雨合羽で旧滝境城からの駿河湾と富士山のショットを狙いに行ったという報がありました。
あそこからの富士と湾曲した海岸線の図は最高ですからね。
また、以前記しましたように「横田甚五郎の抜け道」の進入禁止の御札は撤去されていました。一応は進めるよう回復しているようです。ただし強行突破、夏場はやめた方がイイかも知れません。
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