コレは今より彼方昔、世話になった会社の社内若手が集う和気藹藹とした中、顔を綻ばせて口に出す言葉です。よくその語を吐いていた人はまだあの会社に在籍しているとのこと。
「躍動」とか「歓喜踊躍」(往生礼讃)という言葉がありますが、この語は特に相手が「調子にのって」「チャカついて」「のぼせ上って」いるような時にその状況を見て半ば呆れたような吐きかける言葉です。
「踊っちゃうよ!!」です。懐かしく時々思い出してはニヤっときてしまいます。なぜなら時折ペラペラと目にする信長公記にはその「踊っちゃう」場面が出てくるからですね。
その書の主人公である織田信長といえばまず、思い出すことは
「天下布武」「安土城」「本能寺」そして「桶狭間」等々・・・
さて「桶狭間」というその三文字を聞いて歴史上「そこでの件」を知らないという方はそうはいないと思います(ブログ① ②)。
あまりにも有名な事件ですからね。文献をあげればまずは「信長公記 首巻」。
「御敵今川義元は四万五千引率し おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」
この義元の本陣となった「おけはざま山」について、実はそんな名の山は無いのです。まぁ無いというかその山が未だ確定されていないということです。
一応四か所ほどその候補が上がっていますので所在と推測指定論者の名を記します。尚資料は小和田哲男先生によるものです。
①高根山説(名古屋市緑区有松町大字 桶狭間)
藤本正行・水野誠志朗
②漆山説(名古屋市緑区漆山)
藤井尚夫・高田徹
③おけはざま山 推定値Ⅰ(名古屋市緑区桶狭間北3丁目)
梶野渡
④おけはざま山 推定値Ⅱ(豊明市栄町南舘125)
小島広次・小和田哲男
通称「桶狭間」について私たちは気軽に口にはしていますが、上記の如く史実的には疑いは無いにしろその現場は未だ確定していません。
また義元の死没地(桶狭間古戦場)についても2つの「定説」があることも以前記しました。
①桶狭間田楽坪古戦場(名古屋市緑区桶狭間北3丁目)
②桶狭間古戦場(豊明市栄町南舘12)
ですね。
調子にのってそのまま続けて信長公記を記せば
「天文廿一壬子(ここは著名な誤記 「永禄三」が正解)五月十九日午剋(うまのこく 十一時~正午)戌亥(いぬい 北西)に向かいて人数(にんじゅ)を備へ、鷲津・丸根攻落し、満足これに過ぐべからず、の由候て、謡を三番うたわせられたる由候。
今度家康は朱(あかね)武者にて先懸けをさせられ、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御心労なされたるに依て、人馬の息を休め、大高に居陣なり。
信長善照寺(砦)へ御出でを見申し、佐々隼人正・千秋四郎二首、人数三百ばかりにて義元へ向かいて足軽に罷出て候へば、どっとかかり来て、鑓下にて千秋四郎・佐々隼人正初めとして五十騎ばかり討死候。
是を見て、義元が戈先には天魔鬼神も忍(たまる)べからず。
心地はよしと悦(よろこん)で、緩緩(ゆるゆる)として謡をうたはせ陣を居(すえ)られ候。」
義元は鷲津・丸根の陥落の戦況に気を良くして満足、陣中にて謡を。松平元康(徳川家康)は、戦陣先懸けとして大高の兵糧入れから鷲津・丸根の攻略を経て苦労を重ねてようやく大高城にて休息していた。信長が善照寺に入ったのを見た佐々隼人正らは(「一つ手柄を・・」と)三百の兵で突入するも義元軍にやすやすと一蹴、首もあげられ五十騎ばかり討死。
これを見た義元は「ワシには天魔鬼神も近づけない」とひどくよろこんでまた、謡を「うたっちゃった」「踊っちゃった」のでした。
思い上がって喜んでいればゆくゆく大抵は痛い思いをすることはもはや通例。お調子にのってはいけませんという後世へのよき一例となりました。
信長の踊り(舞)といえば幸若舞「敦盛」のみでしたが、それは世に言う腹をくくった時の舞、「ゆるゆる感」よりどちらかといえば「やるやる」の緊張感でした。
RCサクセションの「いい事ばかりはありゃしない」も同時に思い出します。
画像は家康が今川義元の先鋒として奮戦し、兵糧搬入を成功させた今川軍最前線の大高城(場所はここ)。小高い丘のイメージで周囲は住宅街、平山城。上がれば木が鬱蒼と茂って周囲をうかがう事はできません。
元は水野氏の城で、松平を見限って織田信秀配下にありました。
その後信秀配下だった山口教継が信長の継承を見限って今川方に寝返り鳴海城とともに今川の城になっていました。
この二つの城が織田領の喉元深く突き立てられた城として信長は窮地に立たされるわけです。
大高城代は周囲に織田方の砦で包囲されて常に兵糧の心配と夜襲に気を割かれ、枕を高くして休むなどできないような超前線の城だったと思います。その城にあたかも中央突破の如く、前述信長公記五月十九の前夜に大高城へ松平元康(家康)が兵糧を入れて、城代として残っていたということです。
以前「奥の墓道」とこの城を歩きましたが、たまたま私が彼に周辺の砦の方位について検索を依頼したところスマホをポケットから出し損ねて落し、液晶を割って一気に戦意喪失した図です。よりによって液晶面が路面の亀の甲状の滑り止めの角に当たったようです。携帯契約のシバリがあったため以来半年近く割れたままの見にくい液晶で過ごしていました。
私は笑いをこらえて「踊る」など滅相も無い、同情するフリはしていましたが、その後同様にスマホを落し、液晶画面を粉砕して大いに泣きを見させていただきました。
人を嗤えば自分も同じ。
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