三河湾の顔  戸田康光 よせばいいのに・・田原城 

三河統一を手中にした松平清康の憤死に始まった松平家の絶体絶命は、その孫の竹千代(家康)の幼少期の苦痛に繋がります。

竹千代そのものへの障害は①に母親於大との生き別れ②は人質生活の始まりだったでしょうね。

幼少期の母親不在もそうですが他家にて囲われる無遠慮で厳しい環境(主家の戦の駒としての養育)に置かれての生活は今の子供たちどころか当時の小大名嫡男の「普通」とは明らかに違いますね。

ただしそれらの経験が家康の生涯成功にとって微妙に生かされてきたというのがまずは定説ではありますが・・・。

 

②の「人質」こそ家康をデカくした時間でした。

ただし「人質」は「人質」ですから、用が無くなれば最悪、見せしめとして磔にかかることは常に脳裏にあることは確かです。


当初は尾張織田家中にて。最初からドラマチックです。

本来は最初から駿府今川へ行く手筈だったのですがチャーターされた舟便は駿府とは逆の方向に向かってしまったのでした。

勿論謀略です。その策略を練ったのが戸田康光という人。


戸田家は三河国渥美郡に田原城を築いた戸田宗光(のちに全久)の時に知多半島東海岸に渡り勢力を拡大、三河湾を包み込むように勢力を伸ばした一派です。

 

戸田家も水野家と同様に岡崎松平家との関わりは重大テーマであって、かねてから松平家とは姻戚関係を維持していました。

それは従属関係(戸田康光の「康」は松平清康から偏諱)の維持以外の何ものでも無かったわけですが・・・。

そこへきての守山城の件。

戸田家と松平家の主従関係は崩れ、戸田家は松平がなびいた今川家を同じく主家に頼みます。

 

天文十六年(1547)、6歳竹千代(家康)を今川義元の命で岡崎まで迎えに出て、駿府まで海路送り届ける任を負います。

一行は岡崎城を徒歩で出立、渥美半島の根元にある「老津の浜」から三河湾に出てそのまま「西」へ進んで織田信秀の元へ。

戸田康光もしたたかというか織田方への鞍替えの手土産で竹千代を売り飛ばしたといいます。

ここで6歳の家康が13歳の信長と対面し、数年を一緒にすごすこととなったのですが、成長した二人が永禄三年(1560)桶狭間にて今川義元が滅んだその2年後に清州同盟として手を結んだベースが出来上がっていたというわけです。信長からしてみれば「兄貴!」と慕われながらの可愛い弟分、「竹千代」だったかも知れません。

 

当然に戸田康光は今川家との手切れを公然と行ったのですが、今川義元からすれば強烈な恥をかかされたことになります。

実勢としても水野、松平、戸田と有力三河勢力が織田方に編入される寸前、対今川の先鋒となるやも知れぬという結果となったことも義元としてはこのことは彼の怒りの度を越したことでしょう。 今川義元はこの「戸田康光だけは・・・」と思ったかどうかはわかりませんが天文十六年のその年のうちに、兵力を差し向けて田原城を囲み戸田康光・尭光父子を血祭りにあげています。

 

戸田康光は織田方に寝返ったとして渥美半島の中ほどにある拠点田原城にどうやってその後詰を期待するというのでしょう。織田の救けの及びにくい地理的不利は今川を敵に廻した方がはるかにその脆弱性を露呈させることは明らかですね。

あまりにも浅はかな謀反でした。

 

そして、岡崎から徒歩で渥美半島あたりまで進むことは当然でしょうが、何故にして三河湾側の「老津」だったのでしょう。

目標は駿府ですのでもう一山超えて遠州灘に出た方が、いくら海路といえども遠回りすぎますね。

随伴の岡崎衆も文句が言えなかったのは、「水軍知識」の差だったのだと思います。

陸の戦いに長けた者たちは水軍率いる者には意見することが難しかったその道のプロ意識の壁だったのでしょうか。

体よく誤魔化されて大事な若殿さまをみすみす誘拐されてしまったのでした。