「暑いですね!」が何気ない挨拶言葉になっています。
息子は39℃超えの京都から戻って、「何で相良はこんなに涼しいの?」と言い、夏の沖縄の海浜で体の慣れた私はおそらく死ぬまで「夏が暑い」などとぼやくことは無いくらい晴れ好きですのでむしろ生活するに今は好条件となっています。
何しろ他所に比べれば相良は絶対に「すごしやすい」場所ですね。海がある場所は住環境には適しているのです。
まぁアレ(津波)への脅威は除いてですが・・・
ただし、最近の私はかなり体調管理には気を使っていて何よりも水分だけは過剰ともいえるくらい摂るように心がけています。
これは経年使用による私の血管の健常性がアテにならないためですが、せめて血液内の水分は維持したいものです。
血栓原発の不整脈と脳卒中など怖いですからね。
この事を考えていると腹の立つ思い出があります。
今となってはスポーツの現場での水分補給は当たり前となっていますが、私の高校時代のサッカー部では夏合宿など含めて「水を飲むこと」などはまったくもって御法度、厳禁でした。
まぁそういう知識が無かったからですが今考えると「ただのバカ?」と思える蛮行が罷り通っていましたね。
休憩の際、手や顔を洗おうと水飲み場に集まれば、先輩ズラした赤ら顔の上級生が付いてきて「お前ら、絶対に水は飲むな!
オイお前!!、今水飲んだろ」などとヒステリックにぎゃあぎゃあ言っていたことを思い出します。
私は下級生にそんな強圧的なことは言ったことがありませんでしたが、卒業して数年間はあの先輩だけはぶん殴ってやればよかったとずっと思っていましたね。今はある意味感謝していますが・・・。
もっとも前述の油谷氏のアメフット部時代もそうで、高校の夏の練習中にどうしても喉が渇いて「トイレの個室」に入り込み、タンクの水を飲んだほどだという経験を語っていました。
しかし、世の中、暑くなっているとはいいますが、あの頃のあのくだらないしきたりに付き合っていた私たち、今言う「熱中症」で倒れるなんて者は一人もいませんでした。
不思議なものですね。スポーツへの取り組みやその考え方も変わりましたが人間の体力も変わっているようです。
要は単純、子供たちはゲームに夢中、外で遊ばなすぎ。
境内は蝉の大合唱で気が遠くなりそうですが、蝉取りの子供などここ数年見たことがありません。
ドラマの中で今川義元が人質の竹千代を育てるに「早くから美食を」(将来今川家を脅かさぬよう愚鈍な武将に仕上げること)だったように甘やかされているのでしょうね。
やはり昔から子どもは「理不尽の体験と怒りを圧し殺すこと」を時に織り込ませながら育てるのがホントだったと思っています。今はどちらでも「ホイホイ」もちあげて育てているようです。
オトナが金儲けのために子供が熱中する面白いゲームを作りまくり、やはりオトナ(親たち)もそれを認めるという図式。
結局日本という国を自らの手で滅ぼすようなことをやっているのかも知れません。指先のみの小細工は感服しますが身体の動かない子供が増えていますね。
さて、本堂は「エアコンが無くて暑い」と時々チクリとやられますが、あの本堂にエアコンを入れるには密閉が悪すぎて不効率ですし・・・、いやそんなものは言い訳、そもそも私に本堂へ空調器材などを導入する気はさらさらありません。
しかし数日前に参拝者用に工場用の大型扇風機を導入しました―少々やかましいのですがコレがあることによってある程度納得していただけます。小さい扇風機は数人相手ですが、アレを首振りにすれば相当の範囲に風が及びます。ただしただの風。
エアコンの冷風に比べれば「無いよりマシ」の部類です。
今年は何を考えてそういう発想になったのか、これまでは法事は朝10時~11頃の開式が一般的だったものが1500前後の開式というものが複数入っています。お斉を夕飯にするという策でしょうね。
時間帯の決定は先方様の事情にお任せしていますが、この午後の夕刻前の法要開式については私はてっきり遠方者の参列に気を使ってそのように決定されたものと思っていました。しかし実はお昼近くは「暑いから」という理由のようです。
当山本堂は西に向いていますのでその1500という時間帯はいわゆる「地獄」の如く茹で上がる時間なのですよ。
1400時あたりが日中最高気温となることは理科で教わったでしょうが・・・。
午後の直射日光は本堂の瓦屋根一杯に受けます。太陽光発電を寺の屋根に付ければさぞ効率的でしょうね。
その熱せられた瓦を通して、小屋裏の空気温度も上昇。
最近は無風状態が続いていますが障子を開け放っていても空気は循環せずにじわじわ上から熱いものが降りてくるのですね。
よって本堂は「夕方が涼しい」はまったくのウソ。
よってみなさん涼を求めて時間を午後の夕刻前に指定していますが実は真逆の熱波を味わっているのです。
おかげで最近は法事が終わった直後は「サウナ風呂」湯あがり状態になっています。
雨戸の修理(北東側7枚)を中国からのお客様が来られる前に行いましたが、これは2代目の雨戸。
明治二十一年(1888)に作られたとありますので127年前。当時の住職、そして世話人と施工者の名が記されています。
知った名ばかりですね。
当住 11代目祐曜 4年後の明治25年69歳で亡くなりますがこ
の人の名が小島蕉園に名づけられました。
世話人 小山弥平
小山平吉
大工職 布施教平
山田浅平
偶然ですがみなさんの名に「平」がつきます。
門徒の『総回向偈』「願以此功徳 平等施一切 ・・・」の「平」を連想します。
雨戸の膠着は滑車の脱落とレールの腐食が主な原因。
新しいレールを敷き直し脱落した滑車の箇所には既製品の滑車と座金で対応しました。
デキはまあまあ。あと3カ所残っていますが、今のところ時間なし。南東側のものは板そのものが劣化していますので、どうするか思案中。こちら側からの雨風の吹き込みはキツイのです。
新しいレールは酒井鉄工所に頼みましたが、おそらく旧レールもそちらでお願いしていたでしょうね。
一昔前は鍛冶屋さんでしたから。
今はこの程度なら大工仕事は私が行います。
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