清康が家臣に斬り殺された松平家の悲劇(守山崩れ)から三河の主張というものは一気に引っ込んで東の今川と西の織田との危ういバランスの中、何としても生きながらえるのみの目標を持って家だけはという思いで存続維持させていました。
小豆坂の戦いにもありましたようにスポンサーは今川家を選択したということです。
どちらに付いたとしても最前線にいることは違いありませんので、両家を天秤にかければやはり幕府に近く強大勢力で織田家とは一枚格上の「今川」を選んだのは成り行きと言っても当然の選択だと思います。
そんな中、家康の母親であり清康の嫡男の広忠の嫁でもあった「於大の方(大―だい)のちの伝通院」もまた、その勢力間バランスの中、人生を翻弄させられた人でした。その父が水野忠政でこの知多半島を領する国人領主(刈谷城)。
余談ですが、刈谷といえば「ハイウエィオアシス」ですね。
あの広大なショッピングセンターには京都旅行の行き帰りにお世話になっています。檀家さんの中に決まって「赤福」を連呼する方が居て、特に帰り道にはエビ煎と一緒ににこちらで購入しています。
さて当時の水野家も東は松平家、西は織田家という中間地にあって松平以上に苦しい選択を強いられる状況にありました。
水野忠政は娘の於大を松平清康との約束に応じて広忠の嫁として岡崎に送りだしました。政略結婚の駒に子供や兄妹を使用して姻戚関係をとりあえず結んでおけば当分は両関係温和の雰囲気は作れますので当時としては当たり前のことです。
時間の並びを記せば天文四年(1535)が清康死亡。
天文十年(1541)14歳で於大の方が、岡崎城の16歳の松平広忠の元に。翌天文十一年(1542)に竹千代を生むということになります。
水野忠政の死天文十二年から水野家の雲行きが変わり出します。ドラマチックな涙のストーリーは家督継承した於大の兄の信元が天文十四年に松平・今川ラインを見限って織田氏になびいてしまったことから始まります。
当然の如く面目を失った松平広忠は於大を離縁し実家(刈谷)に追い返したのでした。
ここでは竹千代は三歳にして母と生き別れるという悲運に見舞われることになります。
凄いのは主人が死んだとすれば尼となるのが通常ですが、これは別、水野家惣領で兄の水野信元の意向で久松俊勝に再び嫁入りしています。彼女もしたたかというかこちらでも六人の子供たちを産んでいます。
そういうことで今時そう耳にすることがない「異父弟・異父妹」が家康にはあるのでした。
画像は松平広忠との離縁後刈谷に戻った於大の方が住んだ「椎の木屋敷」跡(場所はここ)。
コメントをお書きください