ただの勘違いによって友人関係を絶ったり、他人を憎んだうえに大失態をやらかすなどということは自分にもまた世間を見聞しても多々ありますが、そのバランス感覚が崩壊して暴発してしまうなどということは余程の疑心暗鬼に陥ってのことでしょう。
昔の名前は尾張国春日井郡森山、その事件がそちらで起こった「守山(森山)崩れ」です。
各勢力、諸説入り混じって確定的な理由は見当たらず、「なんでこんなことが起こったのだ」といわれるくらい突発的で理解に苦しむ事件だったのですが、松平家にとってはこれほどの苦境は無かったのではないでしょうか。
前途多難の始まりだったわけですね。ところがそれらの苦境と幸運の繰り返しの中で「徳川家康」が成立したと思うと、その後の彼にとって、結果論ですが・・・、この事件は松平家にとって必要不可欠な通過儀礼的要素があったのかとも思ったりもします。
「如何に苦難というものが人を磨くか」という点では説得力あるエピソードの序段になり得ます。
「勘違い」にはそれに至る伏線というものがあるものですが、大抵は第三者からの意見・異見・中傷・噂等がベースになる事が多く、もしかすれば、利害関係人から故意にそれら情報を塗り込められることもあって、その中で人は一瞬間に誤解が増幅して情緒的不安定状況に陥ってしまうことはまぁ「無い」とは言えませんので何ともいえませんが、ここでの事件はどうも腑に落ちませんね。
松平清康三河家臣団の阿部定吉と正豊親子がその「勘違い事件」の当事者です。
尾張那古野城主織田信秀と対峙するために岡崎出立の準備を始めたあたりからその噂が流れだします。
それは阿部定吉が敵の「織田信秀と内通している」というものでした。
陣中では(アベを)「信じるな!!」の雰囲気が蔓延しだします。
まったくの濡れ衣であって誰かの作為があっての風説なのか、それとも案外真実だったのかそれはわかり得ませんが、相当の雰囲気の悪さというものを感じた阿部定吉は嫡男の正豊を呼び寄せて、「もしものことがあったら身の潔白を証明して欲しい」と告げていたそうです。
天文四年(1535)の12月3日に岡崎城を出立し、翌4日には守山城着陣包囲、5日には総攻撃というその日の早暁に何故か清康の馬が暴れて大騒ぎに。その騒ぎに阿部正豊は「ついに父定吉が誅殺たれた」と早とちりしていきなり松平清康の元に走り、切り殺してしまったというのがそのバカバカしい「勘違い」噺。
ある程度切迫した状況に追い込まれていたことはわかりますが、馬が暴れたことと父親が殺されたことを即結びつけ、父親の所在も確かめずに主家棟梁に斬りつけるなどということはいくらおっちょこちょいでも考えられないところです。
勿論息子の方は家臣に斬り殺されていますが、父親は御咎め無し。あの時代は大抵は連座するものですし、状況が状況ですから父親は関係が無いとはいえ、定吉の責任も取らせていいところです。ところが彼が腹を切ろうとしたところを制止されその後、許されています。
不思議な処断ではあることも「その不思議」に拍車をかけています。
まぁ現代における人間行動の理解不能の「不思議」も新聞紙面を眺めていれば大いに了解できるところ、480年前の事件と複雑な人間関係と資料不足の中、「わからない」のは当然でしょう。
連歌師宗長もこの城に滞留して、連歌会が催されているようです。織田信秀の連歌好きもかなりのものになっていたのでしょう。城域は宝勝寺周辺(場所はここ)。矢田川を背後にとった段丘上の城が推測できます。画像④の丘の上に城址の石碑が建ちますが手前のアパートの名は「城跡荘」。
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