桶狭間以前の今川×織田の戦いの場は・・・小豆坂

三河松平が興隆しまた周囲の誰もが以後没落の憂き目を予想する発端は松平七代目の当主で家康の祖父の松平清康(大樹寺墓碑)の死からですね。

苦労しつつも快進撃で三河を統一し隣国の織田尾張へ食い込もうという矢先に、何と家臣の刃によってその希望が絶たれてしまいます。

その事件が織田信秀の弟の信光の尾張守山城攻城戦の真っ只中で起こったもので通称「森山(守山)崩れ」と呼ばれています。

 

清康といえば私の家では小田原時代に家に遊びに来ていた黒いネコのことを母がそう呼んでいましたので家康の爺さんはネコというイメージですが、雌伏の松平家、竹千代人質時代に家臣団の唯一の希望は竹千代に「清康の再来」を準えたものだったでしょう。

以降徳川家代々の伝承にはイイ意味にもその逆の意味でも「伝説」を残した人でもあります。

 

①「松平→徳川」への改姓の根拠②葵の御紋の発祥③妖刀村正の禁忌は清康が関わりあるいはその時代の事ですね。

特に徳川家が殊に嫌がったといわれる「村正」との関係を羅列すれば・・・清康から始まって家康の父広忠(上記大樹寺墓碑)が岩松八弥なる刺客に殺された説は結構有名な話(異説あり)ですが家康の祖父・父ともその命を奪った刀が「村正」であったといいます。

 

あげればどれもこじつけの如くでキリがありませんが、家康の長男の岡崎三郎(松平信康)が信長に切腹を命じられた際、介錯人の服部正成が使用したのが村正。家康の夫人築山御前(またはこちら)を野中重政が斬った刀が村正、関ヶ原の陣場で誤って指を切ったのが村正の槍、夏の陣で真田信繫が家康の眼前に投げつけた刀が村正だったと言われています。

 

さて、清康亡き後は広忠が三河を仕切って行くことになりますが、この森山崩れ以来松平家基盤の脆弱性はいよいよ露見して、逆に尾張織田信秀から見透かされて侵入を受け続けることになります。

家中が一枚岩にならない中、合力を駿河今川に依頼するという形になりそれが従属関係(嫡男竹千代の人質)となるきっかけになってしまいます。

 

ということで標記の小豆坂(あずきざか)の古戦場は主に今川対織田の戦場という感覚ですね。

しかし小豆坂とは三河岡崎城の目と鼻の先ですから、何とも松平にとっては屈辱的な話ではあります。

形としては織田と一戦交わるのは松平ではありますが、そのバックには強大な今川軍というスポンサーが控えていたということです。

それでも織田軍の攻めたてる強さは窺うことができ、ここには「小豆坂七本槍」なる織田勢の武勇談まで残っているくらいです。

 

小豆坂の戦いは岡崎の西に流れる矢作川の織田勢渡河作戦の総称で、主にそれら勢力の2度にわたる大きな戦いがありました。

この周辺ではのちに家康による三河統一の危機でもあった三河一向一揆の現場ともなっています。

 

今はそんな面影はまったく感じない、交通量の多い交差点にその石碑は建っています。

光ケ丘女子高校(画像⑩)前の交差点対角にあります(場所はここ)。⑨は矢作川方向に向かう高校の裏道。東上軍を迎え撃つには格好の場所だったのでしょう。

 

ちなみに小豆坂七本槍の七人は

織田信光

織田信房

岡田重能(重善)

佐々政次(勝通)

佐々孫介(勝重)

中野一安(重吉)

下方貞清(匡範)