河原左大臣源融の邸宅の六条河原院(現在の枳殻邸 渉成園)については、彼の趣味、何故か塩釜の風光明媚を庭園として模し、実際に尼崎から海水を取寄せてせっせと塩づくりをしていたといいますからまさに「好事家」の部類(ブログ)。
余程の財力が無ければできないことでした。その後語られた亡霊談(屋敷のお化け屋敷化)というものは人間世界のつきものの「栄枯盛衰」の悲哀と彼の贅沢への皮肉があったのだと思います。
さて、この渉成園のある現地の地名は「下京区東玉水町」といい、さすが鴨川から引きこんだ水利による池が主たる庭を持つ庭園として相応しい名であるとは唸らせますが、さらに隣接地に残る地名も「ほほう!」と納得します。
「塩竈町」ですね。渉成園の北側から五条通りあたりまでの町名として残っています。この「塩竈」こそ源融の六条河原院の「塩竈」です。しかし現渉成園敷地からはかなり飛び出していますが、源融の邸宅の広大さも半端では無かったことも推測できるというもの。
ここにも由緒ある地名が大切に継承されていました。
渉成園の北側からの一方通行にぶつかるのがあの博物館がある高倉通。高倉通は四条や五条の大通りを跨ぐたびに一方通行の向きが変わりますね。
渉成園の北側にその「本塩竈町」という町名がありますが、そちらにある蓮光寺へ向かいます(場所はここ)。
こちらには長宗我部盛親の墓があります。
車ですと一通ばかりで北方向には行けませんので渉成園の東側を鴨川に並行して走る河原町通に出てしまうのが手っ取り早い近道です。
以前長宗我部盛親については父の元親と水軍を率いて相模湾へ。小田原攻めに参加したところをブログで記しました。
関ヶ原での敗戦で改易されてから土佐の名門長宗我部家を再興しようと一発逆転を目論んで大坂方についた盛親は夏の陣の防戦一方の中、大坂城からの脱出にとりあえず成功します。
あの圧倒的包囲網であってもうまいこといけば脱出も可能であるということは驚きですが、彼の生きる事へのバイタリティは凄いしぶとさです。一説に街道筋の宿に隠れ、家康が通過するのを火縄銃片手に待ち続けたという伝説を持つ人でもありました。
結局は男山に潜伏しているところを捕縛されて家族もろとも六条河原で斬首されたといいます。
蓮光寺は浄土宗の寺ですが、蓮光上人は処刑を仕切った京都所司代の板倉勝重(高天神戦で亡くなった板倉定重の兄)に頼み、首を引き取って境内に埋葬したとのこと。
寺の本尊は勿論阿弥陀如来ですが、駒止地蔵と呼ばれる地蔵があります。伝承ではその地蔵は処刑場六条河原に祀られていたものだったものが川の氾濫で流されて埋没、たまたま通りかかった平清盛の馬が突然止まって動かなくなった場所にその地蔵が出てきたといいます。
盛親法名は「領安院殿源翁宗本大居士」。
最後の画像が盛親が隠れていた男山。石清水八幡宮といった方が早いでしょうか(場所はここ)。
コメントをお書きください