「日本史に自信あり」などとほざいていても今の私のお頭の力では現在の大学入学試験にはまったく歯が立たないことはわかっています。
あの頃は歴代天皇の名と在位期まで丸暗記していたほどでしたが、今はすべて「忘れちまった」という体ですね。日常生活に無意味ですし・・・数学の数式と同じです。
考えてみれば私にとって数学ほど無意味な学科は無かったのではないかと思います。高校時代を通してあれほど無駄な時間は無いと授業さえ出ていませんでした。さすがに高校時代の息子には「どの教科も大切」などと言った覚えがありますが・・・
何よりもまた、「歴史」は新解釈やら新説が出て案外と「変化」するものですから、思い出したように教科書を読み返したとしても自分の知っていることとは違っていたり、初見聞だったりしたりします。
表記の通称「薬子の乱」とも教わった平安時代の事件は今や
「平城太上天皇の変」と名前が変わっていたのでした。
昨日、嵯峨天皇時代の「皇位継承者多くて乱多し」というお話、実をいえば嵯峨天皇はその手の問題の渦中にいた経験があったのでした。それがその女性の名を冠にした乱(変)のことです。
きっと
①女がらみでありあまりカッコよくない(みっともない)
②事件の本質からいってそもそもの主役は天皇家の二人
ということで変えたのでしょう。
私には藤原薬子が後ろで糸を引いていたということで彼女の名をその事件名にした「薬子の乱」が馴染みがあってピンとくるのですが・・・
しかしこの名称変更によって「平城太上天皇」という歴史的マイナーな語が表に出てきたということで知識が増えることになりますね。「太上天皇」とは皇位を継承者に譲った元天皇のことで、後世出た上皇や院と同様のものです。
皇位を継承した平城(へいぜい)天皇は平安京を遷都した桓武天皇の第一子で継承順位一番の人。ちなみにその弟が嵯峨天皇で要は一旦皇位を退いて譲った平城太上天皇が譲られた嵯峨天皇を今一度退かせて復権しようとしたのが「薬子の変」だったのでした。
たまたま平城天皇の皇太子時代から人妻の藤原薬子(尚侍)とのスキャンダルは宮中では有名な話、薬子の発言権も増し、その兄の藤原仲成の後押しもあって「今一度皇位を」と望み「いやいや冗談じゃない」と嵯峨天皇が反乱分子を制圧といういわゆる兄弟喧嘩という事件でした。
いずれにせよあまり感心できる話では無いでしょう。
嵯峨天皇は当所は兄より皇位を継承し、兄の皇子の高岳親王を次期皇位継承者と指名していましたがこの事件後、高岳親王を廃止してから異母弟の淳和天皇に継承迂回させたのち、ちゃっかりと自分の皇太子を即位(仁明にんみょう天皇)としています。
嵯峨天皇の「変」への対応は迅速で、あの時、効果的に兵を動かし早期に勝ちを得られたのは日本史上征夷大将軍でお馴染みの坂上田村麻呂の働きです。
田村麻呂は平城太上天皇からも招聘打診されていましたが、嵯峨天皇側についたということです。
あの時田村麻呂が平城天皇を担ぎあげて、東国に下っていたとしたら日本史はもっと強烈に変わっていたということは間違いないところです。
田村麻呂の墓は東山ドライブウェイの展望台から入る青蓮院将軍塚大日堂がありますが、山科区の勧修小学校の北側(場所はここ)にも同様に佇んでいます。
ちょっとした市民の公園となっています。
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