真田信繫終焉の地は茶臼山近く逢坂の安居神社

御当人も知らぬ、「幸村」という名が世に広がった理由はよく知りませんが、これは後世の読み物、劇中等で作り上げられたレジェンドヒーローとして祭り上げられたからでしょうか。

昭和時代の方は何と言っても「幸村」ですので今更「信繫」と言われても「?」に陥ることは仕方ないことにしろ、悩むところです。「幸村」はミーハーチックに聞こえますし、かと言って知ったかぶりと揶揄されかねない「信繫」も嫌味に感じます。

まあ「信繫だけど何故か幸村」というスタンスが一番いいのかも知れません。

さすがに史実にのっとっていないと・・ということからか、先日記した玉造の心眼寺に建った石碑等の文言は「信繫」にて統一してありました。この辺りは殆ど感覚的なものでしょぅね。

 

さてその信繫のレジェンド、数ある「男気」中その最たるものといえばやはり夏の陣、茶臼山の陣で、あの「真田丸」の翌年のこと。象徴的な罵り台詞として、

「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」があります。

これは以後歴然と輝く、関西人の関東人に対する思考の根本精神となりました。

 

後藤基次の討死等、大坂軍敗色濃厚の中、総大将豊臣秀頼の出陣の依頼も叶わず、残るは東軍中央突破の計略、

「あとは快く戦うべし 狙うは徳川殿の首ただひとつ」です。

何しろ気風の良さは永遠のヒーローになりうる要素があるのでした。

 

目標を「ただ一つ」に絞り込んだ「精鋭による突破」というものがいかに強烈で効果的だったかという史料(織田信長の桶狭間・・・上杉謙信の下野唐沢山城・・・)は残りますが、その真田の破壊力は殆ど伝説的です。

かくもスピードと相手の油断の意表を突くことが効果的であるかということです。もっともサイドに陽動するなどして事前に中央を手薄にするという味付けが必要になりますが。タイミングも重要ですね。

 

その家康を少ない手勢で料理するにそのタイミングはほとんどうまく行かなかったようですが、それでも尚、信繫の捨て身の突入に家康本陣は形成を維持できなくなり、本陣の形式的主体である馬印が倒されて地についたほど。東軍総大将家康も「もはやこれまで」と死をも覚悟したほどに追い詰められたといいます。しかしながら家康の救援部隊が気づいて隊を立て直し、すんでのところで命拾い、その後の反撃により信繫は奮戦しつつも大坂城側に後退しつづけて彼の本陣だった茶臼山の近く、「逢坂」の安居神社(場所はここ)の松の木に精魂尽き果てて寄りかかっているところを討取られています。

 

関ヶ原の非出陣は分からなくもありませんが、22歳になった秀頼が総大将として出陣せずに場内の物置に隠れて死んだということは淀らの反対があったとはいえ、みっともない話ではあります。

会社でも事業者でも「将卒を知る」(五輪書)ことは必要ですね。

大将たる者、兵士(卒)とともに(現場に出て)泥をかぶらなくてはなりません。淀さん!!パフォーマンスとしても必要でしたね。

息子秀頼の出陣。

 

画像最後⑮が信繫像。性格は温和で優しいといわれます。

⑬⑭は同じ桜。バスツアーの際に立ち寄りましたが、丁度咲いていました。

大坂城と信州上田城(真田家)はH18年に有効城郭提携とやらを結んだそうで信州からの贈り物がこの桜だそうです。

 

階段上下の図はこの地が台地上であるということ。以前も記しましたが上町台地の段差が楽しめる場所です。

 

こちらの神社では信繫という文字は無く、幸村に統一されているようです。