私はどうしても京都の町は東本願寺前を南北に走る烏丸通を中心に考えてしまいます。
その通を東本願寺を背にして北上すると耳慣れない同じような名前が続くことに気がつくはずです。
京都の町並に馴染みのない頃はこの独特な名称に「不思議」を感じたものでした。
下立売・中立売・上立売の通りの名です。
烏丸通りを走って右に御所が始まるあたりからこの通りに直行する西方向に向かう通りが短い距離の間に続きます。
「立売」とはそのものズバリ店を持たない商売(立売)のことでそれら何かしらを商う商人たちがこれらの通りに集まったそうです。
室町期は御所から伸びる道には二条城(平安女学院)あるいは聚楽第方向となってその道すがらには武家屋敷があって人の往来も多数あったことでしょう。
現在は「店を構える」ということに何らの不思議を感じませんが、この辺り(内裏)に店を構えるということは有り得なかったことでしょうし、当時の物を商うということは「立売」が常識だったと思います。
昨日は祇園社の門前の茶店について触れましたが「出店する」ということにおいてもあの出店は画期的出来事だったのでしょう。
烏丸通を以前記した禁門(蛤御門・新在家御門―場所はここ)を右手に見ながらその日は聚楽第を目指しました。「第」についてはこれも以前つまらぬ話をブログで記していますが、この聚楽第は洛中御所に匹敵するようにあって秀吉が贅を凝らし鳴物入りで建てた城塞邸宅。武家政庁を兼ねた建物でした。
何と言っても関白職と聚楽第を豊臣秀次に譲ったあと、秀頼の誕生によって例の凶行(殺生関白)の一連の中、秀吉は自らの手で聚楽第を取り壊してしまいました。僅か8年の存在であり、資料が残っていないためなかなか実態は分かっていいないようです。
よって聚楽第に向かうと言ってもその跡はありませんので石碑等の案内を楽しむだけですね。
上記「中立売通り」は聚楽第と御所を直線で結ぶ道で後陽成天皇の行幸往復に使用された道だといわれています。
ということで烏丸通りから中立売通りを西に進みたいところなのですが、ここのエリアは一方通行になっていてこの交差点からは入れません。そのため一つ先の交差点、一条通りを左折します。
そのまま堀川通りにぶつかりますがそこが以前記した一条戻り橋で近くには利休邸宅があります。利休を近くに住まわせていましたので聚楽第はここからさほど遠くない場所ということがわかります。
堀川通りからは中立売通りにはなぜか西進できますので、一旦左折して中立売へ。目標は西陣交差点。
左にハローワークがありますのでその交差点右が①②③図。
①聚楽第址石柱のサイドに記された「此付近 大内裏及び聚楽第東濠跡」にご注目を。ここが昨日記した大内裏茶園のあった場所といわれています。
目標地点を西陣のハローワーク(画像⑥)とわざわざ記したのは、以前この施設を建替えた際の発掘調査で夥しい数の金箔瓦⑦⑧が出土していたからです。聚楽第を叩き壊した材を堀に打ち捨てて埋め立てていたことの証でした。
④⑤は聚楽第本丸西濠址の碑と掲示板。
下図左は西濠址の掲示板。右は三井記念美術館所蔵の聚楽第図屏風 部分(ウィキより)
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