江戸文人のメッカ  金湯山早雲寺  宗祇の墓

北条五代、歴代のまったく同じ形の墓石が整列する金湯山早雲寺(昨日ブログ)奥の樹木の中に佇む苔むした墓域はいかにも、情趣深く、心を落ち着かせる場です。

特に古い墓の前に立つとき、その墓の持ち主のことを知らなくとも、記された時代を拝見してその人が生きていた時代を想い、どのような「生き様」だったのだろうと推測しつつ、心静かに首を垂れるその時間こそがその観察の妙味ですね。

 

最近になって、「墓は要らない」ということを「子供たちに迷惑をかけたくないから」を理由にして処断するようですが、コレは子供たちへの「傲慢さのすすめ」のメッセージであると思うのは極論でしょうか。たくさんの事情があってそう決めざるを得ないことを思慮せずそう断じてしまうことはいかにも早計ですが、「まあそのようなこともあろう」ぐらいに受け止めてください。

そして、安直な「迷惑をかけたくない」の発想は「 自分本位ではなく 他者を認め 良き人の声に耳を傾けなさい 」(「仏法僧」)という三帰依の考え方の反意を教唆しているのと同様でしょう。

 

三帰依という謙虚な仏教者の精神の小さき者たちへの発信とその伝承は何もそう大それたものではなく、ただ「私の背中を見せること」であることは常々ブログでも記していたと思いますが、親が「頭を下げて手を合わせる」姿は早いうちに子供に見せて、「感謝と懺悔」(ありがとうとごめんなさい)の姿勢を示すための絶好の日常機会なのです(お墓参り)。それを「縁」と呼ぶのです。

それが親たちが幼き者たちへの暗黙の提示です。子供たちは先祖の存在の具象化である墓碑や仏への、敬愛を含めた真摯で静粛な親の姿勢を見て、それを真似て生きようとするのです。

 

ということは今流行りの「仏と墓碑の欠落」はそれらの昔ながらの日本人の原風景をな無くすことでもありますので、それらを「子供たちに迷惑をかけられないから」という理由とするのはおかしなこと。ゆくゆく、ひょっとすれば「ありがとうとごめんなさい」がわからない人、「自分本位で 他者を認ず 良き人の声に耳を傾けない」など「いけ好かない輩」と後ろ指を指されかねない人間ができるのかも知れません。「絶縁」ですね。

まぁ寺の受入れ態勢もお粗末ながら、墓を相続する人が居ないというのは切実な問題でもありますね(拙寺は「一處一所」という合葬墓は用意しましたが・・・)。

 

さて、この「いけ好かない」の軽薄で俗っぽい酷く憎らしげな語、江戸っ子に流行った汚い語文化のひとつといいますが、「いけ」とは私はやはり「生きる」の「生け」の説(不詳)がスンナリと思います。「他者のその生き方」への誹謗でしょう。そう非難されるのも生きているうちだけですからね。

他にも「いけしゃあしゃあ」とか「いけ図々しい」という風に使用しました。

 

江戸の文化というと小島蕉園の父親の唐衣橘洲(狂歌三大家 他に大田南畝・朱楽菅江)の狂歌が大流行しました。それらはいかにも庶民的ですが、そのベースになったのは俳句、漢詩、連歌ですね。室町期の「侘び寂び」の感覚から始まったそれら心中、人情機微の発露の文学だったわけです。

 

蕉園渉筆の大澤寺の談に「現住好吟詩」と住職の趣味を記す箇所がありましたが、当時は地方の末端クラスの寺の住職までそういった今でいう高尚な趣味を持つ人が居たのでしょう。

もっとも江戸期の拙寺住職は「今」とまったく違って、信用も学業も一目を置かれて、お城に上って講座を持って講釈するような立場だったといいます。

ちなみに私には到底及ばない御先祖様がいたということで、ここでも頭が下がりっきりです。

 

ということで江戸の文化人並居る中、芭蕉はじめこの湯本の早雲寺には一度は立ち寄って参拝し思いを馳せたい墓碑がありました。その墓が昨年の9月に訪問した丸子の天柱山吐月峰柴屋寺の宗長(「急がば廻れ」)の墓のお隣に並んであった宗祇の墓です。こちらの墓石はさすがに立派です。

宗祇が師匠、宗長が弟子という関係ですが、室町期に大流行した連歌の大御所と言われた人ですね。

 

戦国期この人を自領に招き、連歌会を主宰することが権威ある武人としてのステータスで、歴史的有名人との交流は頻繁にありました。宗祇は文亀二年(1502)宗長と宗碩とともに越後から美濃へ向かう途、湯本の宿で没しています。

以後、芭蕉ほか、俳人たちのメッカとなっていったのがこの早雲寺であったのでした。

 

画像③「世にふるも更に時雨の宿りかな」の碑は本堂と茅葺の鐘楼の間に。②はボストン美術館所蔵宗祇騎馬図(狩野元信の花押)。

⑤は徳川秀忠の侍医、今大路道三玄鑑の墓。宗祇の墓①同様、苔の生え具合もイイ味を出しています。

寛永三年九月十九日とあります。江戸に向かう途中、体調急変し五十歳でこの地で死没、早雲寺に埋葬されたとのこと。

お江(崇源院)の体調不良の報せを受けて上洛中の京から江戸に急きょ走ったその途であるとのこと。お江が亡くなったのは、寛永三年九月十五日です。

 

⑥稲津祇空の墓。この俳人は早雲寺内に隠棲したほど。

  「この世をば ぬらりくらりと 死ぬるなり

               地獄潰しの 極楽の助」

を最期にこちらで没しています。