あの大涌谷の件は私の「小田原へ行かない口実」になっています。過去のアルバイトの仕事の中に箱根新道の降雪や台風による西湘バイパスの通行止めの規制に関わったことがあり、もしあの山で何かあった場合の当局の規制は「半端無い」大渋滞、や周辺道路の通行不能が惹起されてまったく動かなくなることが予想されるからです。
あの山の下と浅間山その他、たくさんの日本で動きつつある山々の内部がどう繋がって、どう関連性があるのかは未知ですが、学者によれば、何やら含みありげです。
最近「学者のいう事」なんて・・・的「まさか?」と想うような衝撃的なことを言い放った御仁(政治を生業とする)がいましたが、「学者」のいうことを信じないでどうするの?というのが第一印象。
厚顔無知な私としては歴史でも経済でも憲法でもその道の善知識である「学者」のお話は新しい発見と情報をもたらしてくれて、私を育てていただける大事な「先生」なのだと思っています。何よりそんな暴言は「聞く」ことに対する謙虚な姿勢が欠落しているということ、それが第一のテーマとなりますね。
あの時、その発言を聞いて私は昼食をつい吹きだしてしまいました。その手の発言をした者がより下衆(ゲス)に見えてきます。
ということで、箱根の火山の件、私は「そろそろヤバい」のではないかと勝手に思い込んでいて、亡き父親が暴走しがちの私を諌める際によく口にした「君子危うきに近寄らず」を思い出してしまい「東進」は特に謹んでいます。
そもそも私は「君子」もへったくりもない体ですし、父親存命中にはその意などまったく従おうという気は起らなかったのですが・・・。
さて、上記の私の考えに「ネガティブすぎる」「小事に怯えて小心」「何もできなくなる」と評される方もいらっしゃるとは思いますが、それぞれの考えはまったく自由かつ自己責任の世界ですので、人によります。まぁタイミング次第ではどうにもならなくなることはままありますが。
それでも東京神奈川方面の方でしたら今一番に行きやすく比較的安心できる場所は「湯本」でしょう。
私たち元の小田原人としては湯本は箱根湯本とは言いい、かつ箱根町の役場がある場所ではありますが一般的な「箱根」のイメージまったく無し。
私の住んでいた南町からはサイクリングで行けるような気楽で身近な場所です。
それでいて温泉は勿論、山は眼前に迫り早川の渓流らしい流れもあって自然の雰囲気は大いに楽しめます。
その湯本に北条氏綱(二代)が創った早雲寺が。
山中城を駆逐したあと天正十八年(1590)4月5日に秀吉が本陣としてこの寺に入ります(→助兵衛物語)。
秀吉は日夜温泉と饗宴三昧、映画「のぼうの城」での温泉の秀吉を思い出したりします・・・。
そして、その年の6月の下旬に石垣山(一夜城)へ本陣を移す際にこの寺に火をかけて退去しています。
石垣山の城築城以降、時の進み方は早いものがありました。
このように敵方の菩提寺は「焼き尽くす」というのが当時の「道徳観」ならい。相手のショックも絶大、「菩提寺を守護できなかった」という悔恨に苛まれること間違いなしですね。
丁度その頃八王子城全滅の報(6月23日)が入っていますので城内戦意喪失も止む無し。
7月5日には小田原開城。6日後の11日に氏政(四代)、氏照(八王子城主)らが切腹。
高野山に追放された氏直(五代)は翌年の11月4日に亡くなっています。失意失望による心労がたたっての病だったことは言うまでもないでしょう。
通常以上の流れを「秀吉の小田原征伐による北条氏滅亡」と言いますが、実を言えば「滅亡」は「関東を制した小田原北条」であってその北条の血脈は大きく二流に分かれて存続してたのです。
その一つが氏政・氏照の弟で韮山城の氏規。河内狭山一万石を食みました。今一つが今川家臣福島(くしま)系で「直流」ではありませんが鎌倉玉縄城の北条氏勝。のちに下総岩富一万石を与えられて存続しました(家康の差配)。
その両家が私財をなげうってこの早雲寺を再建したのでした。
寛文十二年(1672)にこの寺の本堂裏の一段高い場所に五代の墓が建てられたのでした。
昨日の八王子城墓域を記していて、そういえば早雲寺の五代の墓についてまだまともにアップしていなかったことを思い出し、数年前のものになりますが、こちらに記しました。
左から順に初代~五代
1 伊勢新九郎長氏 韮山没八十六歳
2 北条氏綱 五十六歳
3 北条氏康 五十七歳
4 北条氏政 五十三歳 小田原駅前の墓はこちら
5 北条氏直 三十歳
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