私個人的に連想するこの城域のイメージは、岐阜城の信長御殿と小田原城の元の野球グラウンド(駐車場)を掘り返した「御用米曲輪」に隣接する城直下の崖下あたりに見つかった庭園風遺構です。
水を引きこんで池等をつくり、優雅な水遊びに水面に映る月を愛でる饗宴の開催を想います。
信長が稲葉山城から斎藤龍興を追い出してから小牧山からこの地へ。岐阜と改めて城に入ったのが永禄十年(1567)、途中信長は長男の信忠に岐阜城を譲って天正十(1582)の本能寺を迎えるわけですが、その間父子は岐阜城の麓の「天主」と呼ばれる御殿にその住空間としての場を求めています。
山の頂上にある構築物のことを現在普通に私たちが口にしている「天守」とは別郭なのでした。
信長が安土に居所を替えた際、逆に信長は山の頂上に「天主閣」を築きました。麓には家臣たちの屋敷を作らせて住まわせ、自らはその頂点たる「天主たる場所」に居て天下を見下ろしたのでした。
ここに「天守」と「天主」の微妙な差があるわけです。
さて、北条氏照も小田原城御用米曲輪の庭園風景を見て育ったことは大いに想像できるところですが、やはり八王子城築城にあたっては信長の岐阜城の「天主」御殿を意識していたことは十分ありえましょう。
氏照の八王子城構想そして、実際に取り掛かったといわれる元亀二年(1571)頃、そして完成、本城としたのが、天正十五年(1587)と相当期間を要していますが、その間、信長の城の「イイとこ取り」をすべく、しっかりと情報網を張っていたことだと思います。高低差のない平山城小田原は参考にはなりません。
八王子城の城主居館は「御主殿」と呼ばれていますが、ここは面白いですね。見応え十分です。
(ブログ 2015.05.31 八王子城 2015.06.01 八王子城)
しかし城郭曲輪のそれらはお飾り程度と言った感じで土塁の延長程度のスケール。
コレに関しては私は観音寺城・岐阜城・安土の城を倣ったとは思いたくはないですね。
土塁の補強や何かしらの礎石、曲輪境界にあたる門や櫓の補強部材としての石材あるいはその石積みを活用することはごく自然です。
石垣を中部畿内の城砦、ことに信長が手掛けた城をイメージしてそれを真似たと思うのはちょっと・・・
構造物に石材を使用することはずっと昔からの工法にありますし何より身近な発想と安易さがあります。
私がこの城に岐阜城をイメージするのは「麓の主殿と天守」そして当時を創造主殿の優雅さですね。城主の趣味の良さというものが伝わるということでしょうか。
というのも現状、ある程度の発掘調査が進んでいて、その成果を公開していることもありますが、発掘すべき遺構の存在が約束されているということが大きいですね。
たまたまこの場所は落城後、江戸幕府の直轄領となり、また明治以降国有林に指定されていたため、開発の手が及ばなかったという「天の恵」があったのでした。
御主殿へ進むための氏照お得意の発想なのか曲輪と曲輪を分断する大堀に架かる「曳橋」の存在は滝山城と同様です。
有事の際は焼き払って敵の侵入を阻もうとするものですね。
現在は堀底の林道開発があって改変されてしまい御主殿登城の際、その方向感に錯覚を惹起させています。
以前のこの御主殿観光のウリでもあった復元「曳橋」は撤去されていますが、かつてあったその曳橋の画像を見ると木橋のスケールとしては特大です。
コレはおそらく復元された木橋の考古学的考証とその根拠、老朽と安全性の問題、そして維持費工面にあたって取り壊されたままになっているのでしょう。復旧工事は高額な再建費用となることも確実です。
私がブラブラと歩いたのは以前にも記しましたように殆ど日没後。御主殿に上ってみれば人感センサーがいちいち発報して「危険です」の連呼。この場所でバーベキューでもやろうという輩でも出没するのでしょうか。
画像⑤⑥が惹橋経由御主殿への古道ですが、⑥付近には薬医門の礎石が出ているとのこと。
それにしても大がかりな堀ですが、守備に人が割かれましょう。
現状林道工作によって堀の詳細はわかりませんが、おそらく北条流の畝堀(山中城)があったのでしょうね。アレでは淡泊すぎますから。
氏照が滝山城からこの地に居城を移した理由についてはその防御性、堅牢性のアップの為と記しましたが、今一つ付け加えるとしたら城山川の源流がこの御主殿の近くを堀の如く流れていたことですね。
水脈としての渓谷の存在が防御性と一挙両得であったと思います。生活の利便性に水は欠くことができないアイテムですから。
最後の画像は帰り際。街灯も点灯、緑の中の空気を独占した満足感は何とも言えません。
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