「他者を認めない」ということから「淘汰して君臨」するなど得てして物騒な方向へ辿るであろうとの示唆は少々大袈裟(昨日のブログ)とも思われますが、まずは人間同士のつまらぬ言い争いから国同士の喧嘩(戦争)まで、その考え方こそがその結果に及ぶ最たる原因でしょうね。
瀬戸内海のアナジャコ釣りやアユの友釣りなどの獲物の獲り方は一種独特です。
彼らの思う「我が生活エリア内への他者侵入を排除する」という性質をうまく利した捕獲方法です。
しかし何か、ただ面白がってはいられないような、身につまされるような光景なのです。アナジャコもアユも事前に獲っておいた彼らの仲間を囮に使い、その侵入者役をやらせるわけですが、アユやアナジャコはその存在を察するや怒り狂って侵入者を追い払おうと動くのです。
アナジャコは普段は穴の奥に潜んでいるのですが、まるで「それだけは許せない」と言わんばかりにその囮に対して追い出しをかけて穴の入口付近まで顔を出しますが、そこを待ち構えた人の手によって捕らわれます。
アユも同様、掛針を付けた侵入者役の囮アユに激怒したアユが体当たりをして追い払おうしたところを引っ掛けられてしまいます。
彼らにとって捕獲されることは即ち「死=滅亡」ではありますが、そのトリックにもしあとから気が付いたとしたらどれだけ悔しい思いをしたのか・・・我が身の愚かな振舞に対して果たして悔恨があったのか・・・まで考えてしまいます。
そして何よりも人間もつまるところ「そんなものかも知れない」・・・ですね。
ということで極論。「人間の脳みそはアナジャコと変わらない」ということで。
ただし人間には確実に懺悔、反省の心は持ち合わせています。
ただそのような思考を忘れている、またはそこにいたる習慣に無いということですね。
事象の説得に対して「あの人への謝罪(または柔軟姿勢)は絶対に嫌だ」などという応答をよく耳にしますが、これを人は「意地」と呼んでいます。
意固地にならず、それを習慣とする感覚を壊して、「笑って許す」ことがいかに簡単で、それこそその感覚を習慣とすることに価値を見出して欲しいというのが仏教の教えですね。
さて、一歩外へ出れば(時として家の中まで)無遠慮なる其々の主張が交錯並行して収まらずギスギスした社会を醸し出している世間ではありますが、最近私が「目にする機会が多くなったな」と思う言葉に「恕」という字があります。
一言で言って「ゆるし ゆるす」という意ですが、「寛恕」という言い回しが一般の様です。
「寛恕」の辞書的な意味は
1 心が広くて思いやりのあること。また、そのさま。
2 過ちなどをとがめだてしないで許すこと。「御―を請う」
と言ってもまったく普通にその語を使う機会はありませんので、「恕」という字面に出遭うことは滅多に無かったのですが、案外最近見る事が多くなったような気がします。
このこと、「恕」の使用が目につくようになったということは・・・「恕」を社会が望んでいる、または「恕」が欠落しているということでしょう。
似たつくりの漢字の「怒」と比較すると面白いですね。
「あ奴の心中」に「怒り」、「私の心の如し」が「恕し」。
怒りも恕も心の中の問題であることと、その文字の形成も何となくわかるような気がしますが今一つ・・・
これは相手の心の怒りを私の心として捉えるそれが恕だよと言う意味ですね。
餓鬼世界の亡者が並んでいる御馳走を前に腹を減らしている姿(長すぎる箸で口に入れられない)は自我のみ、我利我利の思想に固まっていることの譬えですが、ここでの「心の如し」は相手の「怒」の心をも時として私の心であったという反省がもたらしたカタチなのでした。要は「同じ」であるということと、「お互い様」の感覚ですね。
「そういえば元は助け合って生かされていたなぁ」まで思い起こしてもらおうという試みが最近見かける「恕のすすめ」なのでしょう。
画像は私が始めてお目にかかった某所の「恕」一字の墓標。
そして国道に掲げられた標語『「恕」運転のすすめ』です。
一つ間違えれば(・・・「怒」)ギャグになってしまいます。走行の方々ご理解の方は果たして・・・
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