信長の宗教観というか一向宗(浄土真宗・本願寺)、天台宗(比叡山)とのカネ絡みの対立とその容赦ない対応によって「仏敵信長」のイメージは強くなったのですが、要するに安土宗論と南蛮寺で記しましたように、信長は「宗教」というものに対し案外寛容なところも見せています。
特に浄土宗・日蓮宗(法華宗)・耶蘇(キリスト教)に対してですね。
一向宗と天台宗は何故に信長が抗したかといえば・・・それはやはりカネ。信長に言わせれば、天台宗は国のシステムに食い込んだ、荘園制以来の古いタイプの利権の巣窟だったわけで、信長の勧める貨幣経済の浸透と物流(関銭の廃止)、城下の商人活性化(楽市楽座)には不要の既得権でした。
根本は信長の手にしたい経済基盤と同じ土俵の上、いわば対抗者だったわけです。
一方、真宗の門徒は信長の目では封建制度そのものを揺るがす思想「一向専念無量寿仏」で、ピラミッドの頂点におわしますのは「阿弥陀仏」のみでその恩恵は「平等施一切」です。
度重なる支配者の変更、二重払い的納税などそのたびに君臨しようとする支配者(寺社含め)どもに税を納めるより普遍の教え、阿弥陀の代理者「本願寺」に布施した方がずっとイイだろうという考えですからコレも信長にとっては排除したいところだったでしょう。
「安土宗論」は浄土宗vs法華宗の論争でしたが、実は日蓮宗系ではイエズス会、伴天連にも宗論の矛先を向けています。
日本人のイエズス会説法師「ロレンソ了斎(西)」vs日蓮宗の「朝山日乗」という僧の論争ですね。勿論信長の面前です。
ロレンソ了斎はザビエルに洗礼を受けガスパル・ヴィレラを将軍足利義輝に謁見させている人ですが、目が不自由でありながらそのトーク(説法)は勝れ(ベースは琵琶法師)、日本のキリスト教浸潤初期において大いに貢献した人でした。
その後も修道士として布教活動を行い今度はルイス・フロイスと(ガスパル・ヴィレラは三好三人衆と松永久秀(信貴山城)に将軍義輝が暗殺されたため京を離れ、離日)信長への布教許可承諾を得て信長の前に引き出されていたわけです。
そこに伴天連嫌いの朝山日乗が宗論を仕掛けたそうですが、結論はロレンソ了斎に論破されたようです。
論に押されて激昂して抜刀し、取り押さえられるという醜態だったとのこと。
フロイスもこの人にあまりいい評価をしていないよう感じますが当時の顔役であったことは確かだったようです。
その宗論より前、松永久秀の元、ヴィレラに同行して奈良にても宗論がありました。
久秀も伴天連嫌いでこの宗論でぎゃふんと言わせて追放あるいは斬り捨てようかと思っていたフシがあります。ところがここ奈良でもロレンソは仏教代表者を論破したとのこと。
頭がキレて口がうまいということこのうえない人だったようです。
さて、私が中学1年の時、同級生に「○○右近」という人がいました。インパクトあり過ぎの名で周囲からは少々からかわれたりしていましたが、私は結構親しくしてもらった覚えがあります。
私の方は2年生になる前に転校しましたが、それ以来小田原に戻ってもその名に遭遇することはありません。元気にしてますかね。
今考えるとその命名について何に基づいてされたのか興味がありますね。ひょっとしてキリスト教徒?
右近と言えばキリシタン大名の高山右近(重友)です。従兄弟に中川清秀がいますね。
上記宗論の久秀配下の目付として同席していた者の一人にいたのが右近の父、高山友照でした。
のちに友照は南蛮寺再建のスポンサーになっています。
その滑らかに論ずるロレンソに圧倒、感化されて友照は息子の右近(12歳)らとともに洗礼を受けることになります。
当時としては筋金入りのクリスチャンということになりますね。
キリシタン大名でお馴染み高山重友(右近)ですが、それ以前、父親の友照から「キリシタン大名」であったわけです。
画像は高槻城址(場所はここ)。
右近の銅像の下の池には生まれたてのカルガモの雛が、母さん待ち。亀がちょっかいの図。
古文書は本山寺(天台宗)に出した寺領安堵状。
「本山寺境内剪
採竹木事、如先々、
堅令停止訖、若於
違犯之族者、速可
處厳科者也、仍状如
件」
領主は領内の寺社への安堵状を発給することがまず第一の仕事の如くだったでしょう。地元の宗教には気を使うところだったのです。古文書は寺社に残りやすいということもあってこの手のものが多く残っていますね。
これは本山寺境内の竹木伐採の禁制で、最後の「天正弐年三月十三日 重出(花押)」の署名「重出」が右近の洗礼名「ジュスト」のあて字です。
昨日記した「珊太満利亜」(さんたまりあ)といい、一昔前の若者(最近では「珍走」集団と呼ぶそうです)の「落書き」の如くです。
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