都の南蛮寺は信長のお墨付き? 本能寺の直近

油をかけてお浄めするという概念があるということには驚きでした。私など無知な者でして・・・もっとも私ども宗旨に「お浄め」という考えも無し。

 

奈良等各地の神社仏閣に油をかけてまわるという悪辣な嫌がらせ(法的には器物損壊)をして回ったといわれるあの御仁についに逮捕状が出ましたね。コレでようやくあの独り善がりの悪戯は収束するのでしょうか。

しかしアメリカに居るとのことで、どうなることやら。

 

そもそも「悪」なる事物に対して他の事物をもって「善」なるものに変更できるなんてことはどう考えてもオカシイでしょうよ。まぁそう思い込んでいるのも自由でしょうが、他人様の所有物に無茶をしでかすのはダメですね。

キリスト教を標榜しているようですが、そんな狭量な教えでしたっけ? 当流では悪なるものは「わたしのこころ」でそれこそ死ぬまで消えそうもないと教わっていますが・・・。

 

とにかく御仁の「親しい」と言われる神さまとやらをやたらと世に押し付けられるのはかないません。

反省していただいて、はやいところ出頭し、きっちり賠償請求に応じて弁済をお願いしたいところ。

それとも御仁の神様が「やれ」そして「逃げろ」と仰ったとでも・・・

 

さて、信長は「仏教嫌い」(宗教嫌い)ではなかったことは昨日記しました。殊にルイス・フロイスの『日本史』にある信長に対する記述は好意的であって、信長の庇護というものも覗えます。

信長の新し物好きの由縁ですね。

イエズス会による洛中の布教拠点としてその教会=南蛮寺(吉利支丹寺、伴天連寺)=珊太満利亜上人の寺(さんたまりあしょうにんのてら)が建てられますが信長の洛中宿坊の拠点、本能寺の直近(石碑と石碑の距離は200m弱)です。

 

というか当時の本能寺のスケールから言って隣接するかの如くだったでしょう。秀吉の気変わり、天正十五年の伴天連追放令にて破却されてしまっていますが絵図が残っています。

和洋折衷の建物で特にフロイスは洛中の職人たちのレベルの高さに驚嘆しているようです。

 

推定地は先日の「此付近 本能寺址」の石柱と同様、蛸薬師通に面した場所にそれを表す標があります(場所はここ)。

 

先日来本能寺の場所について例の区画の「本能寺址」の石標を紹介していますが、実は2007年の発掘調査の際、画期的な発掘成果が出ています。

発掘された遺物と堀跡がスクープでした。本能寺の推定位置の件、敷地は広大だったはずですが微調整が必要かもしれませんね。

 

発掘調査と言っても周辺でたまたま建替え工事等の計画が発生した時のみ、区域と時間限定の調査でした。京都市中遺跡の上には住居地が広がっているため致し方ないのです。

こつこつとそういう機会が来るのを待ち構え、少しずつ調査を進めているというのがこの世界。まったく気が長い話です。

 

その際のマンション建設工事にあたっての発掘調査だったのですが、位置は上記本能寺地区の黄色の☆印西洞院通です。

そうなると上記石碑のある場所より更に南蛮寺に近づきます。

 

画像①②は唯一残る南蛮寺の図(神戸市立博物館蔵 狩野宗秀筆「都の南蛮寺図」)キャプチャー。

そして「此付近南蛮寺跡」の碑。

青い看板の下が目印ですが、この会社の自転車置き場と化しています。

 

以下堀痕から出た発掘品の一部。京都市考古資料館蔵。

本能寺お馴染み「能」の字が出てきましたね。

「火」=「ヒ×2」を嫌って「去」とあてたことは有名な話。

それでも焼け落ちたのは人間世界の「皮肉」。

瓦が赤茶けて変色したのは過熱の証。火災で炎上したということがわかります。

ということでそろそろ「此付近」の場所を微妙に変更されるかも知れません。