6月2日~天正十年(1582年)~の明け方にあの件が起こりました。信長の包囲下、和歌山雑賀にて籠城していた真宗系の人々にとってはまさに命拾いの記念日です。
おかげさまで当家初代と五家の祖が、助かって今の寺があるのだと寺伝に伝わっています。
家康初期の頃、三河衆家中への浄土真宗の浸透によって、寺の権威が強くなりすぎ、その統制システムに風穴が空くなど、酷く手を焼いたこと(三河一向一揆)はその後の対浄土真宗政策というものに影響を与えました。
信長も家康以上に本願寺に対してその攻略に時間を割かれて、いわば本当の意味での「天下布武」は成し遂げられなかったのです。「道半ば」と言われていますね。
有り得ないタラレバ話ではありますが、もし信長が本願寺の存在を承認し、たとえば顕如に帰依するなどしていたとすれば、かなりスンナリとそれも早い時期に織田家の天下は盤石となったかと思います。
ということで、あえて信長の見誤りを指摘すればあの時の「本願寺」を甘く見過ぎたことでしょうね。
まぁ、信長は比叡山を焼き討ちにして坊主皆殺しをするなど、真摯に仏教に対して帰依する心を持ち合わせてはいなかったことでしょうが・・・。
ただし信長が「仏教嫌い」であったかと言うと一概にはそう言えない部分があります。そして「仏教弾圧」という評価も言葉が端折り過ぎですね。
「本能寺」の3年前、天正七年に安土城下浄厳院という浄土宗の寺で世に言う「安土宗論」という仏教宗旨間の対論会を行わせています。浄厳院はそもそも信長がスポンサーになって建てさせた寺でした。
「安土宗論」は浄土宗対法華宗の対論から発展した事件。
安土城下にはそれら宗旨の坊さんたちが往来し辻立ちした坊さんたちが説教を繰り広げていた様子が想像できます。信長は仏教そのものではなく宗旨への好き嫌いがあったということがわかりますね。
信長に従順(素直にカネを出す)であれば「見逃す」ということだったのでしょう。
「安土宗論」のきっかけは浄土宗の長老に法華宗の「若いモノ」が論議を吹っ掛けてきたことからでした。
結局は「対論」(説教大会)と言っても、殆ど今でいう「リング上」のバトルの如くのもので、それにはプライドをかけたお歴々の坊さんたちが集まりだしました。
信長も当初は「穏便にやれ」(城下で喧嘩はやめろ!!)と指示していたもののギャラリーは次々に集結、スケールは膨らんでいきました。
信長は名代として織田信澄(明智光秀の娘婿だったため「本能寺」関与を疑われて誅殺された人)を任じその宗論という大イベントを取り仕切ることとなり、審判員として南禅寺の長老などを呼び寄せるまでに発展していきます。
その宗論の中身は「信長公記」にその問答が記されていますが、
要点は阿弥陀さんのことが主になります。
私が好きな「一向専念無量寿仏」という語も出てきますのでご興味のある方は検索してみてください(信長公記第十二)。
勝負の結果は浄土宗の勝ちで法華宗側は咎を受け斬首者も出すほど惨憺たる結果。何より「負けました」「ごめんなさい」「二度と他宗を誹謗しません」的証文を書かされて安土城下のみならず、洛中洛外の世人に大いに笑いものにされたとのこと。法華宗の坊さんたちは楽勝で勝てると思っていたのか、きらびやかな衣で登場、逆に浄土宗の坊さんは黒衣だったそうです。
今風に言えば少々調子こいて鼻につくような態度だったのでしょうか。また「命がけ」の宗論になることなど微塵にも思わなかったでしょうね。
さて、信長の最期、遺体あるいは遺骨そして墓を巡っては色々な説があり確定的なものはありませんが、「殆どコレでしょ」と思えるのが京都市上京区の「阿弥陀寺」(浄土宗)のものですね。約20にも上る信長の墓の中で大本命です。
その名も同じ、現在の寺町に移転した「本能寺」(法華宗)にも「墓」はありますが、まぁ「供養墓」の一種ですね。
少々墓としては無理がありましょう。
墓が乱立するというのはあれだけの有名人ですから仕方ないでしょうが、逆に考えれば有名人の墓を建てることによって寺の名誉や地位が上がるという考えもひょっとして無きにしもあらず?。やり方としては悪くないとは思いますが・・・。
それだけ信長の遺骨の所在が不明であるという事実が強烈なインパクトであったということですね。明智光秀でさえ見つけられなかったのですから。
信長自決後のドサクサの中、明智包囲網をすり抜けてその首を持ち出せたのか、炎上後に遺骨が拾い集められたのか、謎ではあります。しかし阿弥陀寺には「信長本廟」の別称があるくらいで信長は勿論、信忠はじめ家臣団の墓まで居並んでいます。
そもそもこの寺は本能寺後の3年後にこの地(場所はここ)に秀吉の命で移転させられたそうですが、織田信長の帰依を得たと言われ近江から呼ばれた清玉という坊さんの寺で、かつては本能寺により近い場所に大きな伽藍を備えた寺だったとのこと。
清玉上人はわけあって織田家中で育てられた言うなれば信長縁者と言っても過言ではない人だったのです。
信長遺骨論争も阿弥陀寺(浄土宗)史料の存在の信憑性からみて「勝ち」ということでしょうか。
秀吉も執拗に遺骨の提供と葬儀式の主催を申し出て清玉さんに断られていたと言いますので、ますますこの墓が信長の墓であると信じたくなります。またそういった点から信長は結構浄土宗には思い入れがあったようにも感じます。
「信長本廟」が光る阿弥陀寺の門構え。
⑤⑥右が織田信長、左が信忠。⑦森蘭丸、坊丸、力丸の三兄弟。
その他大勢。
阿弥陀寺伝記はNHKより。最後の3カットは現本能寺より。
墓好きには飽きが来ません、こちらのお寺。
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