秀吉の三木城攻め(天正七年 1579)に同行しその地で亡くなった竹中半兵衛重治の墓は彼の陣所跡に。その後天正十五年に長男の重門が故郷の垂井に改葬したといいます。
竹中陣屋からほど近い禅幢寺(ぜんどうじ 場所はここ)という禅宗のお寺さんです。こちら竹中家の菩提寺になっています。
真宗の坊主くらいしかその辺りのちょっとした変化について、まぁ一般的にどうでもイイことですから、そうは「ピンと」は来ないでしょうが既報の通り、竹中陣屋からはより近い場所にある竹中一族の流れの真宗寺院、明泉寺があるにもかかわらず、そちらが菩提寺になっていないというところです。
「ああ当然だろうな」という思いが出てきますね。
これは「家康への配慮」ということでしょう。
今となってはハッキリした事はわかりませんが、「武家は禅宗」というコンセンサスはそもそも鎌倉室町と培われてきましたが、勿論、庶民に広く伝わった真宗系寺院に帰依した武将は多々ありました。
特に著名なのは三河一向一揆ですね。家康の若い頃に苦渋を飲まされた事案で、家臣団を二分するような危機的内乱に発展しました。
以降家康は一向宗(浄土真宗)という宗旨に懲りて自らは浄土宗、家臣団には一向宗禁教を出したほどです。
当初の三河では末寺に改宗を強要、拒絶した寺は壊したほどでした。
江戸期になってからは浄土宗からのクレームもあって両本願寺とも「浄土真宗」の名称は禁止され、江戸期は「一向宗」の名のりとして統一されていたようです。
という経緯がありましたので竹中家としては家康や幕府から「余計な詮索」をされないよう、教科書通りの菩提寺の選択をされたのかと推測されます。
重門の心には①一旦大垣城に入ったという大失態②結果的に土壇場で西軍を裏切ったという深い悔恨があったでしょう。
また、あの天下分け目の戦場が手前の領内で地元として戦後処理の必然、目前にした両軍の死屍累々と敗者への容赦ない追及とその結末も多く体感し、「家」を守るために慎重になる事は当然ですね。
竹中半兵衛重治(向かって左)とその父親竹中重元の五輪塔は、祠の中に納められていますが、参拝のため開扉させていただきました。二人の祠の間には五輪塔二基。
祠の中の重治の五輪塔は「風輪 請花」が欠落している様。
重元の方も「空輪」が見えませんでした。
訪れた日は休日でしたから、関ヶ原方面からのウォーキングの皆さんがひっきりなしに訪れて墓地はかなり賑やか。
竹中重治の命日は6月13日(土)。
毎年法要があげられているとのこと。
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