東海道という言葉に慣れ親しんで育った私たちは他の街道の名、江戸時代以降制定された「五街道」でいえば、まず中山道を想い浮かべます。
江戸時代の終焉を渇望、待ちに待ち詫びた明治維新後の新しい政府の施策を体感し、「もっと酷いものだった」というオチの小説「夜明け前」の「木曾路はすべて山の中である」はその街道への真っ先にイメージする言葉です。また、幼い頃、父親に連れられて行った善光寺方面から名古屋、東海道に出るまでの深い緑に囲まれた谷あいの細い道を延々と走り続けたということを微かに記憶しています。
特にまた、関ヶ原への二面作戦の一つ、秀忠の上田城攻めと関ヶ原到着遅延の「秀忠の関ヶ原」があったということ、織田・武田のそれぞれの勢力がこの街道を巡って威を競ったということも是非に顔を出して見たいという気持ちがあります。
中山道の本格デビューはまだ先のお楽しみではありますが、安直なその街道に近づける近江、美濃をブラついて、その街道の名を見かけるとやはり、何かと感動している私が居ます。産まれも育ちも仕事も生活空間もすべて国道1号線、東海道を中心にしていましたので特にその感覚は強いモノがありますね。
関ヶ原方面から岐阜金華山を目指す中山道は、長良川を渡りますが(勿論今は橋が架かっています)、「中山道の河渡(ごうど)の渡し」や江戸以降整備された「小紅(おべに)の渡し」(場所はここ)という渡河整備がありました。また「鏡島」(かがしま)という、湊があって水運の要衝だった場所です。
鏡島は信長の嫡男で「本能寺」の際、二条御所で没した信忠の息子で、秀吉に利用された挙句、関ヶ原では何となく石田三成の西軍に加担して負け組の籤を引いてしまった幼名「三法師」、元服した織田秀信が整備した湊です。
金華山より上流は流れが速く蛇行するため舟運には厳しかったようで、海洋からの便の集積地としてここ鏡島が岐阜城下への物流の起点となっていたようです。岐阜城が廃されて加納藩が立ってからもこの湊は大いに活用されていたようです。
堤の大きさから、この長良川の氾濫も激しかったことが推測することができます。昭和の大改修によってその大堤防は造作されましたが、今でいうその堤防内にもかつては神社仏閣等、人々の生活の証が見られたそうです。
画像⑥矢印は長良川堤から見た岐阜城金華山。
往古よりのランドマークですね。
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