あの時、西軍石田三成に付くか東軍徳川家康に付くかの二択の判断は当人の人生はもとより、家の滅亡栄華そして一族郎党の未来をも左右してしまう重大判断となりました。
関ヶ原以降、その「東西」選択からの各各、栄枯盛衰にはそれぞれそのパターンがありますが、まずは「東」組に居なくてはそのスタートラインにすら立つことが出来なかったわけでした。
天下分け目の本戦場となった関ヶ原と当初三成が籠城を計画した大垣城の間の絶妙な場所に、垂井という地があります。
以前「関ヶ原」そのものを知行した竹中重門が戦後に戦死者を葬って墓地を整備したことをブログで記しましたがこちら垂井は重門(半兵衛息)の本拠地ですね。
半兵衛は父の竹中重元の代から稲葉山城(329m)より標高の高い菩提山(402m)をその居城としますが、竹中家を継承した重門は関ヶ原以降、そのまま垂井を安堵され、その山の麓に平城を築きます。正式には竹中氏陣屋(場所はこちら)と言いますが、堀と土塁、そして櫓門はまさに「城」といってもいいでしょう。
そもそもそちらは「岩手城」という名称がありましたが竹中家は当所5000石で「旗本」格であったためですね。
また「家康に安堵」と記しましたが、ということは戦勝功績があったということで言うまでも無く「東軍」であったことはわかります。しかしその立位置は少々微妙なものでした。
何と言っても当初は三成の要請に承応して西軍として石川貞清の犬山城に籠城していました。
石川貞清の元に入った西軍各武将には井伊直政による調略が入り、殆どまたぞろ東軍への鞍替えが起こっていますがその際、運良く、犬山を出て代々の城菩提山を家康に明渡したという経緯がありました。
もしその時、井伊のお誘いにのることが無かったらこの「竹中家陣屋」は無かったのでしょう。
そもそも垂井は黒田長政の松寿丸時代、信長の誤解(官兵衛の寝返り・・・実は荒木村重の謀反そして有岡城幽閉)による松寿丸処刑命令を反故にして密かに匿われた地。長政と重門は幼馴染といってもイイですね。
そんなところから本戦では黒田隊と共にしますが、長政と言えばチャキチャキの家康派でした。そういうところからも重門の心中には西軍につくことへのわだかまりは初めからあったのでしょうね。
⑧半兵衛さん銅像の脇にある観光地によくあるアレ、「顔を出して撮影」の看板はその日その時、観光協会の方が出したばかりだそう。
たまたま顔を出した「墓道」が記念撮影。
「撮影第一号になります」と煽てられてから、櫓のカギを開けて中へ招き入れてくださいました。中は紙芝居用の道具が入っている様(物置?)でした。
⑪は櫓門の登り口から内部を。
右手の私有地の所有者というのが「竹中」さん。
本家だそうです。⑭は竹中陣屋と堀と櫓門。
コメントをお書きください