家康の「天下分け目の関ヶ原」での勝利、それは家康の当初の目的であったこととは言い難いその経緯でしたが、その勝戦によって江戸時代という安定期基盤を作り、何とか大きな戦争の無い平穏期を招来したということは家康の手柄です。
その家康の人生における数ある難しい選択の中でここぞ最大のキーポイントとあげて後世囃されるのがその「天下分け目」ですね。
関ヶ原という地で行われた、それも短時間に繰り広げられた各所でのドラマについて、どのようにしてあの結果に繋がったかというところをそれぞれの立場(旧陸軍参謀本部、歴史学者・・・)で検証して色々と論じられてきましたが、つまるところ、この最大のキーポイントと呼ばれる戦闘の行方を左右したのだと言われるのが例の「松尾山」の件ですね。
私は当にその「山」について、サラッと記していたとは思っていましたがどうやらその形跡がありません。実をいうと完全に失念しています。
また、関ヶ原ファンもこの地について紛らわしくしている「他の山」たちの名称の判別もありましょう。
それは東軍徳川家康の最初に陣取った「桃配山」(104m)や東西相まみえた南北「天満山」(198m)の麓に「南宮山」(420m)そして、西軍大将の石田三成の本陣が「笹尾山」(200m)でした。
関ヶ原の戦況を頭の中で描くにはまずはこれらの山の位置を念頭に入れておかなくてはなりませんね。
さて、「松尾山を決め込む」「金吾を決め込む」(標記)は知る人ぞ知る「造語諺」。ともに「どっちつかず」「日和見」の狡猾さ、転じて「様子見」の「余裕綽々」たる態度をもうかがう事はできますが、やはり傍観のみで参加しない、そしてどちらか優勢の方につきたいという意思がみえて結局はどちらからにも後ろ指を指されることになります。
「松尾山」(293m)は関ヶ原で小早川秀秋の陣のこと。「金吾」は小早川秀秋の官職、唐名「執金吾」から。
松尾山は上記の山たちの中でも中程度の山ながら、関ヶ原主戦場を一望に出来る位置でした(場所はここ)。
何より松尾山が他の山たちと違うのは、この山は元々城塞の山で、各所に城ならではの防御装置が設置されていたことでしょう。そういう居心地の良さというものもあって、秀秋さんもお尻が重たくなったのかも知れません。松尾山城(長亭軒城)。
古くは富島氏という名が出てきますが、浅井長政が配下の樋口直房に信長予防線の城として整備させていた城です。
位置的に見てもなるほどと言わんばかりの好立地で浅井が東方からの近江侵入を阻むために備えんとしたことは合点がいくところです。関ヶ原戦では当初は大垣城主伊藤盛正が石田三成の要請で再整備したところに「西軍」の旗印を以て小早川秀秋がその貫録で入った城でした。
その戦いを描いた各ドラマでは、優柔不断振りの小早川が双方の伝令の催促にのらりくらりの状況と家康、三成のヤキモキが描かれるシーンです。
その後、家康のブチ切れ、「大筒」を秀秋本陣へ撃ちこんだことによって秀明の尻に火がついて東軍への加勢が決定、これをきっかけに西軍総崩れという結果に繋がったことが決まって描かれています。
名神高速の南側から登城しました。
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