織田信長がこの金華山、稲葉山城の主、斎藤龍興を 永禄十年(1567)引きずり落とし、造作が終わったばかりの小牧山城を出てこの山城に入ったあたりから例の「天下布武」のハンコを押しまくったと言いますね。
小牧山の頂上もなかなかの景色ですが、金華山という山のスケールはそれを格段に抜きん出ています。
「東海一の弓取り」と呼ばれる今川義元を討取り、美濃斉藤家を追い払って、「近江そして京都」という絶妙の位置(西に望める伊吹山の向こう)を手中に治め、またそのシチュエーションが転がり込んで、あの山頂の城に立ち眼下を見下ろせば、それは誰であっても「天下はオレのもの」と思い込むのは仕方無いでしょうね。
まったく荒唐無稽な比較ですが、その力量とタイミングで、のし上がりそして自滅していく様子を描いたアルパシーノの「スカーフェイス」の劇中に、象徴的に映された"The World is
Yours"という言葉がオーバーラップしてきます。
仏教的理念というか、当流には
「盛者(じょうしゃ)必衰会者定離」という言葉があります。
『今の繁栄・安泰の当然と高慢』には必ず咎があるのだと思考を試みる一つの教科書的事象でもあります。
ちなみにこの語は真宗ではお馴染みの蓮如さんの御文、2帖-7にあります。
「~たとひまた栄華にほこり 栄耀にあまるといふとも
盛者必衰会者定離のならひなれば
ひさしくたもつべきにあらず
ただ五十年 百年のあひだのことなり~」
文明六年(1474)
さて、信長による稲葉山城を改めて中国の古事から名付けた「岐阜」の語の成立は有名なエピソードですが、さすがに他の例に漏らさずあの巨大な山城の天守に城主が常駐していたわけではありません。麓の城館在住そして戦時に限って山に上がるというのがオーソドックスですね。
麓の発掘が進んで信長の館の全容が明らかになってきています。「槻谷」(けやきだに)と呼ばれる金華山の西側のその地は谷中央に川が流れて、その両側に段々畑のような曲輪状の平坦地が連なっていたとのこと。
殆どの遺構が信長時代といいますが、これら階段状の城主館地域は古く斎藤家三代(道三・義龍・龍興)のものがベースにあるとのこと。
小牧山城から発し集大成安土城への中段階の城ですが、やはり信長らしく石積みの立派さが目を惹きます。特に城内紹介では「巨石」という表現を使用していますが、意表を衝くような大きな自然石を配し、あるいは石垣の中に積むという一種威圧的でもある風景を醸し出しています。館入口の(おそらく虎口の)左右に積まれた石のことをルイス・フロイスは「裁断されない石の壁」と表現しているようです。庭園の池の突き当りの石の高さは3m近いのではないでしょうか。
ただし、人工的庭園の趣向は感じ取れますが、あくまでも自然的であって、調和がとれた趣味の良さそうな風情ある住空間だったことが想像できますね。
この城の地「岐阜」は家康が嫌って破却廃城にし、当地には子飼いの奥平家を入れて加納藩を立藩させ加納城という平城建立にその部材を使用させました。
家康としては「岐」という「鳳凰降臨する」=「天下布武」という大層な名と、金華山という急峻威容の山に敵方の城塞使用という「もしやの事」を警戒したに違いないところです。
この城には無数の砦、出曲輪があったといいます。
これらの探索はゆくゆくの課題とさせていただきます。
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