政治に関わる者のたちの論戦のことではありません。
善哉屋さんに隣接する由緒ある寺は法善寺で、何と言ってもこちら「水掛不動」への参拝が皆さんお目当てのようです。
私はしばしの間この界隈、善哉屋にいたわけですが、その仏様にひっきりなしに老若男女が訪れては、水を掛けていました。
ということであの姿になったのか、昔からこんな姿であったのか、どなたかが人為的にそうしているのか、まったくわかりませんが、その容姿は想像だにできませんでしたね。
第一印象としては新宿の歌舞伎町界隈の雑然とした雰囲気の中、「何これ?」と思うほど法善寺周辺に「寺院」のイメージは無し。
善哉屋さんの着物の女店員さんに私が「昔はもっともっと法善寺は大きかったのですよね?」と問いかけた事から雑談が始まったのでした。「昔からずっとこんなまま」という返答に対して「昔の意味が違います」と私のうん蓄が少々展開され、千日デパートの火事の件でその話は終わったのでした(場所はここ)。
この地については司馬遼太郎氏⑤日想観からの説明をすればわかりやすいでしょう。そうですね、この地は聖徳太子建立の四天王寺(上町台地の先端)からさほど遠くない場所であって、現に私も2回そちらから徒歩でこちらまで移動しています。
ということは浄土教系の念仏の概念が色濃く残っている場所であるということですね。
ということで法善寺を宗旨的にいえば浄土宗。
その宗旨について私は近しいようで無知識、正面に見える「緑一色」の不動さんからしてかなり違和感がありました。
浄土宗といば本尊は阿弥陀さんであることは私ども真宗と同じはずでしたから。
信じられないような歓楽街への変貌振りと、考えれば「快楽と墓場」は紙一重ということからある意味頷けるところがありますが、江戸期に入って大坂の陣が終焉した頃、こちらは変わらずに念仏の場でした。
街の中心地、街道筋からは外れとなって、墓地が密集し尚且つ、街の入り口ということから処刑場と獄門台そして火葬場があった場所です。
「千日前」の「千日」とは「千日念仏回向」のことでその「千日寺」と呼ばれるのが法善寺だったのです。
現在は移転していますが同じ浄土宗の竹林寺と二つの寺のあるかつては荒涼とした場所であったはずです。
特に面白いと合点したのは現在の吉本興業のなんばグランド花月辺りをかつて「灰山」と呼んでいたということですね。
勿論その語は火葬場の灰のことです。
「白骨」を笑いで吹き飛ばすとは何ともシャレが聞いています。
大阪らしい歴史の一幕でもありました。
火葬場と墓地の立地(生活の場から近からず遠からず)は人々の人口の増加と発展により外に向かって膨らんで行き、やはりその外に追いやられるという歴史です。
人はかつての墓たちを改変し生活の場としていったのでした。
案外「変なもの」に怖がっている人に限ってかつての墓地や処刑場の上に何食わぬ顔で住んでいるなどという話はよくあることです。みなさん墓場の上に住んでいるといっても過言ではありませんね。
人権尊重の気風はつい最近からのことであって、約2000年の間、どれだけの日本の国に御先祖さんが居たのか数えることはできませんが、それらを埋葬した地を、ことあるごとに為政者たちは問答無用で墓石を城建設の部材にし、墓地を破壊して都市を建設して行ったのでした。狭い日本の有効活用です。
最近になってから「墓地」の権利が認められ、道路造成や街区の整理にかかった場合はまとめて代替地に移動したわけです。
牧之原近くでは、掛川駅近くの区画整理が有名で、山の上の墓園にいっしょくたに移されています。
千日にあった大多数の墓地は「あべのハルカス」の殆ど真下の阿倍野墓地に集められています。
丸金印は例のアレ?
「人 +ニ+ ハ+|
(芯棒=辛抱)+一」~人には辛抱が一番。「金」言です。最期の3枚は別行動された布施さん提供の画像です。展望台からの画像は四天王寺と阿倍野墓地。墓地の広大さがわかります。
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