北条氏照在城 関東屈指 滝山城   見学会5/10(日)

戦国期の小大名の勃興割拠滅亡は駿遠だけのことでなく全国いたるところにありましたが関東でも同様、それら消滅離散の生き残りレースが繰り広げられていました(武蔵七党)。

 

関東管領上杉家に長尾・白倉・小幡・大石の四宿老と呼ばれた家臣団があります。言わずと知れたそのうちの長尾家が関東管領上杉憲政の養子となって上杉家の家督を継承した長尾景虎(上杉謙信)の系統です。

 

その家臣団の一画の大石氏が武蔵国守護代として現在の八王子周辺を領し、その本拠地が滝山城(場所はここ)だったと言われています。

東京都のうち「島」を除いた陸続きの唯一の「村」、檜原村は東京という煩雑を感じさせない、のどかな地ですが、その村の地を元とした南東側に多摩川(その北に秋川との合流点があります)に沿うように細長く並行して伸びる台地、多摩川の作る河岸段丘上にあります。航空図と地図参照。

 

古くから甲州街道の裏街道と呼ばれていた道程にある城で、加住丘陵と呼ばれる台地の南側の滝山街道沿いにもそれらの支流が流れて、要害性を重ねています。


尚、檜原村域の人口は世の御多分に漏れずこの半世紀で半減、高齢者が特に多しというのが現状。

厳しい自然環境、就労機会の限定、そしてコンビニ無しというのがその理由なのでしょうね。

 

そのような環境を麓の平地、滝山街道沿いにては感じることはできませんが、やはりこの広大な台地に上り、城の縄張りを歩けばその雰囲気と自然を大いに満喫することができます。

私の訪ずれた頃は八重の桜の散り際、山躑躅のオレンジ色が見事でした。勿論響き渡る鶯の声も格別でした。

 

かといって台地上には散策路(滝山公園)があり、比較的お気軽感もあって地域住民のジョギング、犬を連れての散歩等に使われている様子、すれ違う人は結構多し。数台のバイクとも行き交いました。

案内板に展示物を掲げている方と出遭わせましたので声を掛けると、チラシを渡されて、「今度、来てね」とお誘い。

「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」の方でした。

5/10に城址見学会が催されるそうで、その案内の貼りだしでした。

 

武蔵守護代家大石氏は元を辿れば木曽義仲庶子の流れといい、私ども今井の伝承をかねて聞いてきた者としては、一度は行ってみたかった城でした。

当初のこの守護代職の城館は上記、多摩川と秋川の合流する大きな意味での中州先端の二宮(現あきる野市)にありました。

その後、平地の二宮から川向の台地に高月城という山城を築いて上がり、さらに、より堅牢な防御を求めつつ、南方に睨みを配した滝山城へと発展させています。

 

大石定重という人がこの滝山に城を築いた元となる人のようですが、小田原北条の進出は河越夜戦により関東管領職、守護・守護代といった従来の権力体制を一蹴してしまい、大石家と山内家との主従関係はここで終焉となります。

 

北条氏康はそれでも大石家を温情厚遇し大石定重の子定久は、氏康の三男の氏照を娘の婿として迎えて、自らは隠居、その子に当家存続の望みを繋ぎます。

この時の大石家は絶妙な判断だったと思います。

主家上杉家に従がって無謀な戦いを挑んで滅亡することに意義はありません。

時の運をも感じますが、大石家は以降も家を存続させるため「狭い平均台の上」を上手に渡り歩きました。

北条家配下となった大石家は当然に秀吉の小田原攻めの煽りを受けて連座の憂き目もあったのですが家康に拾われています。

 

大石家は有力大名家としては歴史に残りませんでしたが、子孫は徳川家に厚遇され、江戸の守衛グループとしての地位を得て、幕府恩顧の血脈を培いました。

その流れに幕末の新撰組発祥の源流があったともいいますね。

 

さて、新城主氏照は小田原を守る北の要衝としてこの滝山の台地に改変を加え曲輪を土塁で囲み空堀を深く掘ったと。

この城の遺構は殊に多く、そして気持ちいいほどよく残っています。

問題は防御性ですが、一旦台地上に上ってしまえば広く平坦、城の規模が大きすぎ、各曲輪の高低差も無いという意外な脆さがあるようです。

 

永禄十二年(1569)の武田信玄による小田原攻めの際2万の甲州軍に包囲され、「すわ落城」というところまで攻められたそうです。小山田信茂らによる陽動作戦(「十々里―とどり―の戦」)

にハマり氏照は大負け、特に城南の斜面にある三の丸方向からの城攻めに地形的弱点があることを知って氏照はより堅牢な山城、八王子城の建設に取り掛かります。この際信玄が本気攻めをかけたとしたら城は落ちていたでしょうが。

 

縄張りは家臣団屋敷址曲輪に本丸と二の丸の間に中丸という曲輪を配し、深い空堀で遮蔽し「引き橋」で渡すという造りです。

その他本丸から谷を隔てた北西側(台地の根元方向)に「山の神曲輪」という名称の削平地があって本丸と同様、眼下の多摩川の向こうに関東平野が望める構造になっています。

 

その曲輪に行きつくために二の丸まで戻り、千畳敷、小宮曲輪なる名称の土塁に囲まれた広い平坦な場所を廻らなくてはなりません。途中、各曲輪に設置された虎口等遺構を確認することができます。余裕の敷地面積による、攻め手を誘い込んで殲滅しようとする仕掛け、「行き止まり曲輪」なる場所もあって、うかうか攻め込めないような設備も見受けられました。これは馬出し曲輪を兼ねていているそうです。

 

氏照建立の少林寺というお寺が麓にありますが、この寺の開祖は小田原から連れて来た僧によるものだそうです。なるほど本堂には北条家家紋が。

 

滝山城跡見学会はサイト参照 「よみがえる滝山城