駅近市民の憩いの場 段丘からの脆弱性 片倉城 

日本にはたくさんの城址がそこいらじゅうにありますので、山だけでなく街中にもその遺構・残骸と思われる場所が見受けられます。まあ地名で「城山」・・しろやま、じょうやま等々の古くから呼ばれているのが最たるものでしょう。

しかし、殆どのその城址というものと関わった人々の生活は歴史という大きな流れの中で些末化され忘れ去られ、今となっては推測のみでしか語れない、そう表舞台には出て来なかったような場所は山ほどあります。

 

敗者の歴史は残らないという厳然たる流れがあって、時として勝者によって改変されることまであったでしょうし、有力な人物が関わらずに、史料の現存が見当たらないということが殆どその推測の域を出られない理由であると思います。

 

さて、昨日記したヤマブキソウのキレイな片倉城(場所はここ)は殆どJR横浜線片倉駅のスグ近く。比高もそれほど高く無く付近住民の散策等憩いの場になっています。航空写真と地図を広げてみればなるほど人里にある丘、いわゆる典型的な防御性も意図した平城であることがわかります。

南北朝期から地頭系の豪族が企図しその後に支配者の変更によって改変されて、規模も大きくなっていったように思います。

 

地形は低台地の先端でその北側に流れる「湯殿川」、南側に支流として分かれた「兵衛川」という天然の堀を巧みに利用しています。この二つの川の名称からもその歴史を推すことができますね。

川と川に挟まれた台地の低部湿地帯の絶妙な環境がカタクリやヤマブキソウそして蛍などの生育できる環境を維持できる要因になっているのでしょう。まずは住吉沼という湖沼が浸入を妨げる造りになっているようです。画像④

 

もっとも城砦の縄張りに関して水の手は水堀の防衛線の期待と同様に、生活必需となる「水」を引きこむに絶対条件であり、一挙両得となる算段となります。

 

しかし、立地的に見て段丘先端の河川に挟まれた側から攻略する攻め手は有り得ないでしょう。なぜなら西に広がる丘からの進軍は殆ど高低差を感じないからです。

「武蔵七党」と呼ばれた近隣地方豪族同士の小競り合い程度の戦闘であれば防御性としては十分でしたでしょうが、戦闘のスケールが大きくなった頃、たとえば北条家が関東を支配領域に入れて上杉・武田の外圧を受けつつある頃から堀を深く、土塁を高く掻き揚げていったのでしょうか。史料不足のためすべて推測の城ではあります。

あれだけ里の中にあって、民との接触が近かった城を思っても時間の流れには抗えないということです。人々の記憶から忘れ去られてしまったと言いきるには空しすぎますが。

 

ちなみに「武蔵七党」とは平安期以降、関東の地に割拠した群雄武士団のことで地名もそうですが見ただけで「ふ~ん」と勝手に納得できるような名も。ちなみに以下3の野与党の渋谷氏とは小田急高座渋谷でお馴染みの渋谷氏ですね。

ただし歴史書によってその七党の構成氏称が異なっています。当地、遠州三十六人衆のすべてがわからない中、関東ではその殆どが判明していてその流れがだいたいわかっていることは凄いことだと思います。

これら坂東の武士団中から全国に散らばって定住した所々で名を馳せた家もありました。

 

1 横山党 横山氏流、海老名、愛甲、大串、小俣、成田、本間、中条

2 猪俣党 猪俣氏流(1と同族)、人見、男衾、甘糟、岡部、蓮沼、  

   横瀬、小前田、木部

3 野与(のよ)党  野与氏流、多名、金、思窪、柏間、道智、 賀谷、

   道後、笹原、大蔵、 南鬼窪、西脇、白岡、箕勾、柏崎、戸田、

     大相模、須久毛、渋谷、金重、野崎、利江、高柳

4 村山党  村山氏流(3と同族)、金子、大井、仙波、宮寺、山口

5 児玉党 有道氏流、児玉、庄、本庄、塩谷、小代、四方田、 ※

6 西党 西氏流 平山、由井、立川、小川、田村、中野、稲毛、川口

   上田、犬目、高橋、小宮、西宮、田口、駄所、柚木、長沼、磯

7 丹党 丹治氏流 丹、加治、勅使河原、阿保、大関、中山、中村

  横瀬、薄、小鹿野、大河原、青木、新里、榛沢

 

上記5児玉党についてウィキペディアにその諸氏が多く連なっていますので参考まで。

 

片倉城は上記1の横山党の領域ですが鎌倉幕府の政所初代別当大江広元の進出からその三男の長井時広系(広元四男が毛利氏祖の毛利季光)の長井氏が入り、後代に扇谷山内配下となって、片倉はその拠点になったといいます。当然に北条氏の覇権が及んでから~その過程で大石氏が入城しているともいいます~は歴史から消えていくという運命を辿ります。

 

腰曲輪風の住吉神社のある削平地とその上段の主郭⑩(航空図A)、そして二郭(同B)+三郭そして付属する櫓台、小曲輪らしき遺構、何より北東方向の谷―深い空堀の要害性、主郭と二郭を隔てる空堀跡⑩、だだっ広い二郭⑫⑬そして二郭と三郭の位置⑭⑮関係(北側湯殿川に張り出ています)と西側の脆弱性を補完する空堀と土塁⑯⑰といった遺構が見られます。

 

⑱は二郭の防衛ラインの空堀を渡って南東方向の図。東京工科大学の巨大なビルが見えます。⑲は台地、畑地とその先は公園と緑地帯。域外を見渡すと先に住宅地。多少の勾配はあるようですが比較的平坦であることがわかります。

⑳は不明ながら石垣も。最近造作したものに違いありません。

 

④は横浜線下のある兵衛川に架かる兵衛橋の名を記す交通標識。無料駐車場も整備されてお気軽感ありますね。