おでこや頭の真中に阿弥陀さんの化仏(けぶつ)をかたどった十一面観音は比較的古いお寺に秘仏的に鎮座していることが多いですね。
この仏は仏教発祥の「西域」には本来無くて、思想的に中国で醸造されて仏教の辿り着いた終着の極東の辺地、日本にてたくさんの仏像が作られたのだと思います。
オールラウンドプレーヤー振り(・・イレブン)を具象化した仏像で、同じく千手観音の働きと考え方は同様でしょう。
仏教伝来後、瞬く間に人気が出て奈良・平安期の古い伝承のものも今でも多く残っているお馴染みの仏像です。
日本の十一面観音信仰の最たるものは「白山信仰」の修験。
より多くの仏像が作られてその山が広がる加賀・越前・美濃の麓に広がっていきました。
まぁそれだけ我々人間の煩悩が多岐にわたって存するということでして、言わずとしれた現世利益の仏様ですね。
嫌味を追記させていただければ、偽教(中国出典の)が発展する中で芽生えた信仰で本来の釈迦の考え・・・本質的に人間は「一切皆苦」「四苦八苦」が伴うもので「逃れがたきは無常なり」とは超越して、人の願望のみが特筆的に込められた仏がそれでした。
どちらかでも記しましたが、十一面観音・千手観音の観音仏は今でもかなり人気です。
一時大流行りの仏像盗難事件が頻発しましたが、その際も十一面観音は世の御堂から姿を消していました。
本来庶民の土から湧き起こったような信仰で、常にだれもがお参りできるように古びた山奥の堂にいらしたものですが、心無い人の邪心によってその微かな願いすらも届けられなくなったこの時代、「御先祖様に申し訳ない」の一言です。
当流は「阿弥陀仏一仏」で他の仏様には「浮気」しませんので阿弥陀仏のみしか堂宇にないことも記しています。
そのために室町以降爆発的に増えた真宗系+浄土系+その他の寺院での阿弥陀仏本尊の形式は圧倒的な数に上りますので、より十一面観音はその世界(希少性と泥棒の需要)で人気が上昇したのは止むを得ないでしょう。
何よりその仏の働きは現世利益の最たるもの。
1 十種勝利
2 四種功德 です。
簡単に記せば・・・それはそれはその「売り」、凄いですよ・・・
1-1 病気をしない
1-2 一切の如来に受け入れられる(救われる)
1-3 カネと食事に不自由しない
1-4 あらゆる敵から守られる
1-5 王さまに宮殿で歓待してもらえる
1-6 毒にあたらず病の状態も悪くならない
1-7 一切の武器による被害を受けない
1-8 溺死することがない
1-9 焼死することがない
1-10 不慮の事故死がない
2-1 臨終時如来と見(まみ)える
2-2 六道の下位、地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わることはない
2-3 早死することはない
2-4 極楽浄土に行ける
これらの利益(りやく)が古い日本の土俗信仰と融合し、天然痘などの病気の蔓延、飢餓干ばつ、戦乱の中にて育てられていったというのも日本の仏教の一面です。
ハッキリ言ってその利益たるや「ダイハード」のありえないほどの上を行っています。
まあ、庶民の切なる願いというよりも、背負っている重要課題に比してあるその優しい存在感に惹かれるのでしょう。
ちなみに真宗「阿弥陀仏(他力)の本願」は「信じて念仏」=浄土。極論すればそちらは行く場所ではなく、「みなみ」(皆身)に「ある」ものです。
南無=「おまかせ、ありのまま」を「南に無い」とあてているのですがそれを真に受けて「西方の遥か遠くの場所」に想うことはオカシイと一休さんが言っていましたね。
阿弥陀仏 みなみにあるを しらずして
西に願うは はかなかりけり
さて、私の好きな近江八幡、何度かブログにて記していますが、日牟禮八幡宮の裏に圓満寺というお寺があります(場所はここ)。
二層の山門の威容が目を惹きますのでスグわかります。
こちらには井上靖の小説(「星と祭」)に紹介されて有名になったという重文指定の十一面観音がありますが、今は拝観不可となっています。
湖東にありがちな白色の石材(花崗岩)による五輪塔残欠も散見。関東系黒っぽい伊豆石系とは違います。一見新しく見えますがこれでいて、室町以前は堅いところでしょう。
最後の画像は「たねやのあんみつ」。
昨日の法事の御仏供としてあがったお下がりを頂戴しました。遠方よりお参り御苦労さまでした。
おいしいご縁を「いただきま~す」。
隠居して「餡蜜茶屋開店」というのも私の夢の夢。
売れ残ったら自分で食べればイイですからね。
コメントをお書きください