夫亡き後  飯尾家の気概 女城主お田鶴の方

戦国時代で城主亡き後の妻が女中たちを引き連れて白装束の鉢巻き姿にて敵中へ突入し総て討死などという勇ましいお話は時代劇で見かけました。

 

殿さまが亡くなって妻がひたすら家のため幼い息子のために奮戦するわけですが「女城主」とまで言われた岩村城のお直の方(織田信長の祖父の子=信長の叔母さん)を筆頭に井伊谷城の女城主井伊直虎などが有名です。

井伊直虎は頭を働かせて井伊家を守り通した人でしたが気丈に討死覚悟で大挙する敵陣に女衆のみで斬りこみを掛けて死んでいった女城主が曳馬城の飯尾連竜の奥方、お田鶴の方ですね。

 

お田鶴の方は遠州錯乱の中で当初暗躍していたようです。

上記井伊直虎の曽祖父井伊直平が天野氏犬居城(実際は社山城)攻めの最中に急死しますが、井伊家書物によれば、お田鶴の方に毒茶を呑まされとあります。その結果が少なからず井伊家の家督継承者不在への状況へと繋がっていたわけですね。

 

飯尾連竜とその長男が氏真に騙されて殺されるまでの経緯は諸説あって詳細は不明ですが、お田鶴の方は主人と我が子が殺された事にいよいよ頑なになり、むしろあとを追うつもりの半ば自殺願望的心理状態が働いていたのでしょうね。しかし短慮としかいいようがありません。

 

家康が「漁夫の利」の「やすやすいただき」風状況を見逃すわけも無くこの曳馬城に乗り込もうと使者を使わせます。

家康の条件は一説に「お田鶴狙い」の線があったとも言われますが、かなりお田鶴そして飯尾家にとっては破格ともいっていい好条件でした。開城して家康に付けば安泰のうえ城もそのままというもの。

 

次男が在城していたといいますので、家康の他でのやり方から推測すると、その際にスンナリと開城していれば次男が家督を継いでいくことは違いなかったことと思います。

 

お田鶴は

「おめおめ城を開きて降参するは妾の志にあらず」と言って家康の提案を一蹴、家康の大軍と籠城300余で向かうことになります。最後のお田鶴は緋威の鎧兜に薙刀で侍女18名とともに敵陣へ斬り込んで果てたとのこと。

 

 

現在お田鶴たちの墓所は住宅街の椿姫観音堂(場所はここ)。

昔はちょっとした塚らしい10坪ほどの丘があったそうですが、浜松大空襲以来荒れ果てて、戦後になってこの祠が建てられました。

椿姫の由来は家康の作ったお田鶴他侍女たちの墓地のまわりに築山御前が100本余りの椿を植えたことからと伝わります。

 

上記地図を開くと「飯尾」の姓が。

ただし詳細は不明です。

この姓は歴史上「滅亡」といっても浜松に特化してかなりありますね。

電話帳データ静岡県内「飯尾」の約150件のうち約130が浜松市内に集中。特に浜松市中区で1位高林、2位曳馬の両地区で64件もあります。その一統か何らかのかかわりがあることは違いないでしょう。