飯尾連龍の「死に方」が不吉   曳馬城(引馬城)

出世城として後世囃された浜松城には前身の城があることを以前記しました。

曳馬城ですね(またはこちら)。

浜松城周辺の発掘調査も進んで少しずつその全体図がハッキリしつつありますが、私はこの曳馬という城の名称は「浜松」より好きです。

字面のみの感覚ではありますが、「馬を曳く」という動的で戦国時代らしい名称はカッコいいものです。

 

家康は「ひくま」を「幕を引く」=終焉=「The End」になって「縁起が悪い」からと誰かに焚きつけられて変えたのでしょう。

 

話は飛びますが「The End」といえば「ドアーズ」と「地獄の黙示録」を思い浮かびます。そしてそのアルバムタイトルが「ハートに火をつけて」でした。

さすがに古典ロックといってもいいレベルでそれらが全米でヒットしていた頃は私たちはそのような音楽にはまったく無意識の世界でした。

「The End」は、コッポラの映画「地獄の黙示録」の中で初めて聞いたのでした。

 

さて、その曳馬城の城主としてその名をあげれば飯尾連龍ですね。飯尾氏の元姓は三善氏といいますので、古くから中央政界にいた名門家です。

室町期には管領に次ぐ相伴衆という有力武家にあり一門中駿河に下向した飯尾氏があり、今川家家臣となります。

その後今川氏親の時代に遠州統一となって曳馬に城を任されるようになったという運びです。伊勢宗瑞もそうでしたが今川家は中央とのパイプが太く、「地元より都」的、いわゆる家柄重視の家臣構成をしたという方向も見えますね。

 

曳馬城主としての家の運命が変わったのは当時の周辺国人衆と同様、「今川義元が桶狭間で討たれた」ということが発端になります。

上洛に同伴していた飯尾乗連も討取られ、遠州の騒乱(遠州錯乱)となる前夜にその子飯尾連龍が相続することになりました。

今川氏真配下となることは当家代々の流れで当然ではありますがその力量には閉口していたでしょう。

当初連龍は氏真に恭順していますが、三州岡崎に入って今川家に反旗を掲げた家康に心がなびいたのでしょう、周辺の国人衆と組んで今川から離れようとします。駿河と三河・尾張との距離感もあったでしょうね。

 

その際にいわゆる絶対的な忠節を尽し今川家の元にありつづけようとした新野左馬助親矩はその討伐に向かって討死しています。

 

その後、飯尾連龍は「ちょっとやりすぎたか・・・」「元々今川家で戦ばたらきをしていた御先祖さまに面目がたたない」などと再び心が動いたのか、今川派家臣の中傷と仲介もあってか、今川氏真に「水に流す」という御赦しの言葉に乗じて駿府へ謝罪に出向いたところを謀殺されてしまいます。 

 

「どっちつかず」の日和見ではなくて、一旦旗を掲げたところ次には違う旗を掲げてしまうという愚を犯してしまったのでした。飯尾氏はそれで歴史から姿を消す事になります。

 

三善為康→・・・・飯尾長連(駿府下向)→・・飯尾賢連(曳馬城)→飯尾乗連→飯尾連龍

 

浜松駅のスグ近くに飯尾氏を祀る東漸寺(場所はここ)があります。

宝塔は五輪塔型で上部のみ宝篋印塔状相輪が伸びるタイプです。石材は伊豆石の如くの黒味は無く比較的明るく少々赤みがあります。パーツ取組み合わせの感ありますが・・・産地不明。