志戸呂から県道81号(焼津・森線)松葉城を過ぎれば、この地区の温泉地としては有名な倉真温泉があります。
当地の温泉通によれば、相良「子生まれ温泉」や川根温泉に比べると「日帰り」のイメージには少々欠けて値段も高めとのこと。
「倉真」とは現在は「くらみ」と呼びますが、私はやはり「鞍馬」からの変化を推測しています。
この村落の南には遠江三十六人衆の河合成信が領した「初馬」という地がありました。
河合が籠城した松葉城ではありますが、地名としては前述の温泉地を主張して目立つ「倉真」の方が知名度があります。
そちらには倉真城という詳細不明の城址がありますが落城時の城主の名はわかっています。
この人も遠江三十六人衆の一人で松浦兵庫助。
遠州には「松浦姓」が少なくありませんが、この倉真周辺に集中していることから領主城主としての松浦家は滅んだものの一部離散した一派が居たことが推測できます。
また河合氏の籠った松葉城との単純比較(堅牢さ)において両家の国人衆としての勢力の大小を推す方もいらっしゃるようですが、先日のブログで記したとおり、歴史上たまたま残っている城塞を比較してその力量を比較する事は少々無理があると思います。
たとえば松浦氏の滅亡(これは伝承として事実)が、いわば敵対していたのか、合力したグループかのどちらに尽きるのですが、たとえばまずは鶴見因幡を南方より押し出して掛川北部初馬の地に入り込んだ河合氏との関係を考えるというのが普通ですね。
また何よりも伊勢宗瑞率いる今川氏親軍の遠州侵攻の時期でもありますので、やはり今川家に滅ぼされたと考えるというのも一理あるかも知れません。
しかし私の推測は河合氏が初馬に入ったのは松浦氏との関わりがあったからだと思っています。
今一度先日の初馬の地図を開くと・・・
現在とは多少境界が異なっているとは思いますが街道筋を監視する松浦領の倉真城を遠慮するように細長く包み込むようにあって、倉真松浦衆から見れば河合の初馬は南東方面からの防衛線のようにも窺がうことができます。河合領の北部にはこれといった街道も無く山間地でいわゆる痩せた土地。やはり河合一統は倉真に気を使って後から入ったとして、松浦、河合は同族あるいは姻戚関係があったものと考えています。矢印青が倉真城、赤が松葉城、緑が長松院。
そうなると「敵」と「味方」は確定します。
同族河合氏の敵(かたき)と同様、鶴見・勝間田連合軍です。
よって河合と松浦両家が鶴見・勝間田に追われ、先に河合家が滅ぼされます。鶴見・勝間田は今川の進撃に備えて志戸呂に急きょ戻りますが今川勢に討たれます。
その際、志戸呂城後詰に向かった斯波系、反今川勢力によって松浦氏の倉真城は落とされたのだろうと考えます。
まぁあくまでも推測、勝間田・鶴見も志戸呂で今川軍に滅ぼされていますので、史料が残らない要因となっているのでしょう。
河合氏の城とされる松葉城に、菩提寺となっていて今川氏親にも縁がある長松院とも「松」の字が入っていることを「松浦氏」との関わりを思うのは「こじつけ」でしょうか。
倉真の城と言われる丘陵の東側平坦部、松浦兵庫助の石碑があります(場所はここ)。畑の中にありますので農家の「松浦さん」に断ってから入りましょう。画像①~⑥。
ここいらの部落は「里在家」(さんざいけ)と呼ばれていますが15,6件「松浦」姓ですから。その中に屋号を「五郎馬」と名乗る松浦家があって「馬」を冠にいただく流があったとして前述の如く、初馬からの並びで「倉真の元は鞍馬」かも・・・と思ったのでした。
ちなみに現在遠州の「松浦姓」の存在は吉田町がトップですが、発祥を思わせる倉真が第2位になっています(84件)。一方「河合・川井」の方といえばこの地の残存は皆無、殆どが浜松市内となっています。
もっともこのあたりのことはかねてから記していますように明治以降デタラメに苗字を付けたという時代がありましたので一概にその数の多さによって判断するというわけにもいきませんが・・・。
倉真城落城の際、主だった松浦の血統は途絶えるも、帰農した家臣のうち名跡を惜しんで名のったということも考えられます。
画像⑤⑥の赤丸が石碑の位置ですが、倉真小学校のバス停から見た図です。これからの季節は木立の葉の中に隠れるでしょうが目を凝らせば確認できます。
⑧の里在家橋を渡って「里在家」集落へ。橋と石碑の奥に見えるのが倉真城です。
⑦は粟ケ岳(黄色矢印)方向。赤矢印のあたりに小さい方の石碑②があったそうですが、こちらにまとめられたそうです。
⑨は付近地名の金井場の廃寺跡。付近の80代のお婆さんに聞けば「昔は砂金でも採れたのかも・・・」とのこと。不詳です。
下図は金井場の古道交差点の石標。
真っ直ぐ行けば県道81号線で松葉方向。大代、金谷五和、志戸呂へ粟ケ岳を廻りこんで抜けることができます。ただし道狭小部分あり。
左方向は「原泉村に通ず」とあります。この「原泉」が遠州原氏や孕石氏を示唆しています。
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伊奈輝通 (金曜日, 12 2月 2016 16:22)
倉真村にあった社地「やしろじ」」生まれの伊奈と言います、金井場のね衣装は恐らく「鐘鋳場」ではないかと思われます、寺の梵鐘を鋳造した場所をこう呼ぶ事があるそうです、近くに世楽院と言う寺があり此処の梵鐘を鋳造した場所と思われます、村では世楽院が倉真上ではないかと言われていますがこの寺は依然真砂と田島堺倉真川の向かい側に有って後に今の場所に移ったと言われおります、小山の中腹で敷地跡とみられる地形で村落の火葬場が有りました、三笠図書館と言う村営だった施設が有りそこに手書きの文書が有りますのでご覧になるといいかとお居ます
今井一光 (金曜日, 12 2月 2016 21:28)
ありがとうございます。
世楽院には何度か訪問させていただいています。
興味深い情報をありがとうございました。
早速、その内容について2016.02.13のブログに記したいと思います
野澤大輔 (金曜日, 03 1月 2020 13:19)
私の母親の実家が、倉真の隣上西郷の更に隣の五明という地区にあります。
この五明という地名が、松浦兵庫助が倉真城から落ち延びて5人の家臣と村を興した事が始まりと言い伝えられています。
そして私の祖先はその松浦兵庫助だと母親から聞いています。
今井一光 (金曜日, 03 1月 2020 19:56)
ありがとうございます。
西郷の西の「五明」の名称が松浦家五家が入ったことからとの伝承は面白いですね。
今川以前の遠州の群雄割拠の構図について不詳の部分があります。
その件、大いにわくわくさせられますね。
伝承含め文書の類が残っていればもっと楽しいのですが。
倉真村住人 (月曜日, 21 3月 2022 12:37)
詳しい説明ありがとうございます。倉真村の呼び名は確かに「鞍馬」という言い伝えもありますが「暗間」ではないかという説もあります。「初馬」「倉真」「長間」「萩間」の地名は、谷間を意味するというものです。「里在家」は子供の頃、「さとざいけ」と聞いていましたが、「さんざいけ」という呼び方は新知見です。倉真村の助郷は「金谷宿」であったので、江戸時代になっても「馬」との関わりはあったものと推定されます。
今井一光 (月曜日, 21 3月 2022 18:41)
ありがとうございます。
倉真の暗間説の件、現地は低い台地に囲まれているとはいえ決して「暗」という感触は受けませんでした。
ただし金谷宿の助郷に関してはヤル気を無くす心の闇を連想しますね。
あの大きな山を迂回しての動員には辛い感が漂います。