静岡県内各所の城・砦を歩きますが、人里離れたかなりの「内陸」を感じる城があります。
たとえば先日記した松葉城などもそうですが、ハッキリ言って山の中。
通常この手の城というものは生活の場には無く、有事の「詰め」の城であって城主の本来の住居たる館は城の麓にあるというのがそのパターンです。その家臣団の屋敷がそれを囲うように設けられますね。
ところが松葉城の場合、生活基盤となる産業、農地等耕作地そして肝心の村落と民がイメージできないのです。
要は人も居ないし(これは現在でも)、農耕地も無い、山と谷と川のみなのです。
戦時の防備のためには十分機能しますが、生活観が付随していません。不思議な城ですね。
「遠江三十六人衆」の一人として顔を並べる河合宗忠は「初馬」の人とあります。何しろ河合氏は歴史から消滅していますので不詳の領主です。元は平安末に山名郡川井村(現袋井市)に在地した源家の流れというのが定説のようです。
現在の掛川市初馬を住所地として見れば以下のよう。
南北に細長い領地であり、最北は粟ケ岳山頂。詰めの城、松葉城は先日記した水垂城の北、倉真の部落の北東となります。
左図でいえば新東名のPA上り、赤矢印です。現在の区割りと違い松葉城も初馬の領内であったことがうかがわれます。
しかしどう見ても河合氏の館(通常生活の場)は松葉城では無く比較的山間から離れた、溜池等農耕の水の利がある南部にあったと解せます。
有事の緊急事態にそんな距離を移動して北方向に駆けあがるなど当初から考えていたのでしょうか。
現在にあっては松葉城の攻防のみが伝わっていて、あたかも河合氏の城が松葉城のみに捉えてしまう傾向がありますが、国人支配する領地にあって、「詰め」を一つのみに考えることなどはあり得ません。イザという時のプランは数種類持ち合わせていたはずです。
歴史上初馬に他の城たちが現れていないということでそれを検討しないということが拙速なのですね。
要は松葉城以外に一の城、二の城、三の城・・・という具合に有事の詰めは用意してはいたものの、この北の端の城に入らざるを得なかった並々ならぬ理由があったに違いありません。
よって河合氏は南東部の平地にあったであろう常時の住居地である館あるいはその近隣の詰め城を鶴見・勝間田連合軍に攻めたてられ、北へ北へと逃れて攻め手から見れば最難関の詰めの城、松葉城に籠城したと考えるのが普通でしょうね。
その後、松葉城は粟ケ岳方向から迂回した二氏連合に耐え切れず落城したのでしょう。
さて、川合氏の詰めの城として今一つ、伝わっているのが長松院(砦)です(上記緑矢印)。
現在は長松院という禅寺ですが、上図、現区割からすれば「河合氏の領地、初馬」からはハミ出ているように見えます。
しかし以前はやはり初馬の一画であったのでしょう。
河合氏の領地はかなり広範囲だったことが想像できます(地図)。
そして何よりその配下であったのは堀越殿(遠江三十六人衆)です。これは当初の出自、山名郡川井村ということから堀越殿との関わりも近かったであろうことがわかりますが、何故に初馬に移ったといえば、堀越殿ともども斯波氏に追われたということでしょう。
遠州の守護職の経緯は単純に記せば
「1今川→2斯波→3今川」。3今川の時代と区別するため1今川を遠江今川、あるいは堀越と言います。
河合氏が袋井川井から離散した時期は上記1―2の時期です。
「1今川」が「天下一苗字」で「今川」を名のれなくなり「堀越殿」(遠江今川氏)と呼ばれるようになりましたが、そもそも河合氏は今川家に付いてきた家ですね。
ということで駿河守護となった今川氏になびいていくことは当然の流れでした。要は今川本家にすれば河合氏は遠江の楔(くさび)だったのでした。
そのことから、今川義忠に追いやられた斯波系の勝間田家が勝間田家とも何らかの姻戚があったかもしれない鶴見家とともに、河合氏を滅ぼそうと動くのは理解のいくところです。
ましてや「三十六人衆の鶴見」を見て頂ければと思いますが、当初は「掛川」。
このことは山名郡川井村に居た河合氏が斯波氏との争いにより掛川初馬に押し出され、その初馬を含む掛川に居た鶴見がさらに志戸呂に追いやられたことがわかります。
鶴見からすれば河合は恨み骨髄の敵だったはずですね。
その河合氏との先代今川義忠からの関わりからして、今川氏親は河合氏の滅亡を機に弔い合戦を大義として一気に大井川を渡って鶴見の志戸呂(横岡城)を滅ぼし、今川家悲願の遠州進出のきっかけとしたのでしょう。
長松院は城塞としては小規模で、松葉城の如く要害性は無いものの、境内東側には粟ケ岳東部から東山の谷を削る松葉川が流れ、天然の深堀を形成、西・北側には土塁の面影も見られます。
伝承によると、松葉城落城ののち河合一統は此方の砦(長松院)に逃げ込んだ後、それぞれが自害したといいます。
河合成信は腹を切り奥方と姫たちも東側に流れる川の淵に身を投げたと。
長松院さんに向かうには東から行けば日坂宿川坂屋の先を右に入って粟ケ岳を目指します。西から来れば事任(ことのまま)神社の交差点を左に入ってその先をさらに左、粟ケ岳方向となります。
⑬粟ケ岳⑭女衆が身を投げたと云われる淵⑮淵から振り返った墓域の木立。
①河合と川井の「かわ」の混同はよくある聞き伝えによる変化。河原﨑と川原﨑、あるいは勝間田、勝田、勝又等々、色々あります。
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