氏親・盛時に一杯食わされた 志戸呂城鶴見氏

静岡県を中心に活動、本職(医師)から外れて「その道」に深く入り込み多くの埋没した歴史を掘り起こした浜岡の鈴木東洋さん(城きちがいの寝言 : 旧浜岡町地区 高天神城への繋ぎの城、等々)についてその説や作られた城縄張図は師の仰るような「城きち」にとってはありがたい指針となります。

 

東洋氏と言えばやはり先に伊伝文化財団より文化奨励賞を受賞した「静岡古城研究会」の機関誌『古城』は「城きち」にとっての教科書のようなもの。

私がこちら静岡に腰据える以前からの活動があります。そしてその存在に気付いたのは最近になってからですが、「古城」は私の「楽しみ」とまったくリンクしていて、宝物の如くの存在になりつつあります。

 

講演会、現地研修会も催され、昨日のブラタヌマの如く、家から飛び出す口実になるのですが、生憎開催が土日に重なって、どうしても私の時間とはギャップがあるのです。

 

たとえば3月15日には「今川氏親の遠江侵攻と志戸呂城・松葉城」なるタイトルで、何と246回目といわれる見学会が催されているようです(関連サイト)。

これらは私の登城経験がある城たちですが、各知識人諸先輩方の考察も捨てがたく、新しい発見もあるはずで同行してみたいとは思いました。

 

3月に入っての土日は、ともすれば半年以前から法要の依頼が入っていますので、まず出席は不可能ではありますが、そもそも見学バスツアーの起点はこの日の見学会もそうですが静岡駅なのですね。

大井川や掛川の城を廻るのに静岡まで一旦出なければならないという不効率もあってこれも無理ですね。

 

さて、標記「志戸呂」とは遠州住まいの方ならば大抵は耳にしたことのある地名です。今では浜松西区の「志都呂」の方を聞く頻度が高くなりましたが、よく見れば字が違いますね。

その志戸呂は大井川右岸、今でいう島田市で、大井川鉄道でいえば五和(ごか)駅、新東名高速の島田金谷I.Cの周辺です。 古くは「質侶・雙侶」と記されていた記録が残るそうで、一説に「浸泥」(しどろ)であって水に浸りやすい水害を伝承するとも言います。浜松の「しとろ」もその手の発祥と。

ということで掛川に入った山内一豊が行った大井川氾濫対策の志戸呂堤建設でもその名は残ります。

 

なだらかながらその新東名が突き抜ける粟ケ岳に連なる台地の大井川側の麓ですが、その大井川に下る寸前の高台にあったのが

志戸呂城です。この辺りは横岡という地名も重なって横岡城とも呼ばれています(場所はここ)。

 

この辺りに多い張り出した舌状台地先端あるいは、河川・湿原を天然堀に企図した単立の山のような形ではなく、大井川という大河川を利した立地であることは変わりありませんが河川との比高は大して感じず、村落・根古屋等との比較ではむしろ一番低い場所に城が設定されていたようです。大井川方向になだらかに下る台地斜面の村落の先端に位置しているという感じです。

 

本曲輪推定地は茶畑に開墾されて、雰囲気のみ。地元大手の茶業商社が購入して管理しているようです。

畑の中を注意深く見れば簡単にわかりますが(グーグル航空図にも確認できます)大きな井戸跡が残っているのには感動します。

大抵は自然崩壊で殆ど消失してしまうのがこの手の城の常ではありますが、逆に人の手が入ると往往にして「井戸を埋める」ことに抵抗が発生するようで、案外大切にされて残されるものです。

 

この地は上記の会社が工事したばかりの新しい農道のコンクリートが敷設されていますのでその場所を探せばわかりやすいと思います(やはり航空図でも白く光って見えます)。

 

その前の道が旧来の台地上と河畔の旧城下地区を繋げる主道で、これより北側の農道は新設されたものです。

ただしこの細い道は車道通行は無理ですね。竹が覆いかぶさって軽でもガリガリになりそうです。

 

その道を上って行くと「城之檀」なる地名もあります。城主が低い位置になる城というのも珍しいかもしれません。この城の別名で鶴見城という呼び名が見られますが「鶴見因幡守栄寿」という名が見られます。

 

伊勢盛時(宗瑞―のちの北条早雲)のバックアップで遠州に侵攻した今川氏親はこの城を攻略するになるほどと思える奇策を取っています。

明応五年(1496)ですから氏親23~25歳(生1471説1473説)。

その3年前に茶々丸を討って伊豆を奪取した伊勢盛時は以降、氏親の強力な軍師として遠州攻略、斯波氏系一掃に力を貸しています。

 

よってこの城にも「盛時がやって来たかも・・・」という推測は成り立ちますね。ちなみに盛時の年齢はこの時64歳説40歳説ありますが、それら戦闘が長期広範囲であることから体力的に40歳がスンナリでしょうか。

ただし氏親とは14歳差。氏親の母親北川殿が盛時の「妹か姉か説」がありますが、妹とすれば一歳違いとしても13歳で氏親の母親となったことになります。

やはり「姉さんの子」と考えるのが説得力があるかも知れませんね。

 

その奇策とは大井川東岸に軍勢の集結を表する旗指物を大量に掲げます。そういえば1号バイパスに「旗指(はっさし)」という地名がありました。対岸の相賀村とありますがその背後にある山の静居寺さんの地番は「島田市旗指」ですね。

 

鶴見氏は当然に大井川湖岸、城の大井川に面する大手に勢力を集中し、防衛ラインを強固に準備しますが、城方が警戒した旗差はダミーで、今川本隊は既に大井川を渡河済み、長者原とよばれる台地上から一気になだれ込んで追い落とし、意表を衝かれた鶴見氏はここで滅亡しています。

 

こういう奇策というものは氏親の発想には無いと思います。

最近になって、そういえば盛時が小田原を攻略した時~明応四年(1495)の「あの奇策」を思い起こしました。

ここに「盛時がいた」ことは間違いないと思いたいところですね。

 

航空図①A城址B長者原②赤矢印が古道 黄矢印が井戸跡

③④城之壇 ⑤⑥⑦⑧は②の赤矢印付近 ⑨は城址から見た長者原方向 ⑩は⑤の裏辺り ⑪は古道 ⑫⑬⑭は井戸跡

⑮大井川と対岸方向 ⑯対岸旗指方向 ⑰島田市内 ⑱牧之原台地 ⑲城址大井川方向の段丘、茶畑と一部みかん畑

⑳は「古城58号」表紙