「新野池新田」(池新田)が開発される以前のこの地区における中心的村落?だった新野のお城の一つ、佐栗谷トンネル西の釡原城もそうでしたがその佐栗山トンネルの東側丘陵の尾根上、新野と小笠、塩買坂方面とを結ぶもう一つのトンネル、「間蔵坂隧道」①との間の丘陵にも城址があります。「天ケ谷城平」と呼ばれています(場所はここ)。
規模は釡原城よりも大きそうでより、遺構を確認することが出来ます。管理というか案内板等はそこそこあって、城址の見ごたえは十分です。
茶畑への開墾やアンテナ等、人の手が入っていないという点が残存の良さを保っている理由だと思います。
新野の立地については御前崎?の「イメージなし」と記しましたがこの城の別名は「高橋の城」とも言われます。
高橋といえば菊川南陵高校バス停の2つ小笠寄りの信号に「高橋」の交差点がありますが、古くから佐栗谷、新野にかけて、この辺の地名は「高橋」です。ということで古くから鎌倉御家人から?「高橋氏の城」として推測されています(義元時代に地頭高橋左近将監の名)。
また新野左馬之助の地でもあり、この城も彼の城として機能していたことも、その後の武田家の改修を受けた城とも考えられています。高橋と新野の関係も詳細不明ですね。
左馬之助の墓のある神社の丘陵と高橋の城の間の道がトンネルに通じ、そのトンネルの先から塩買坂に上ることができます。
左馬之助の丘からグラウンド越しに見た高橋の城②と旧小学校東側にある「こどもの里」前から見た左馬之助神社③。
横地城を焼き払って戦勝気分で横地を後にした今川義忠は一説に駿府に入らずに新野に向かっていたとあります。そうなるとこの地は既に今川の配下―当然新野氏が考えられます―となっていたということになりますが、そうなると当時の新野、この城の主と横地氏との関わりについても検討しなくてはなりませんが、この辺りはゆくゆく思考しようと思います。
しかし、地理的に見て、横地からの帰途、義忠が何故この塩買坂を通過したのかは少し疑問ではあります。上記の如く新野に出るためという推測は直線距離という点ではおかしいですね。
距離的にも短く、比較的になだらかな現在の磯部の交差点を右に向かい、城の裏手に出た方が早くて安全の様な気がします。
塩買坂は狭く軍勢は間延びし、新野までの道はアップダウンが多いのです。
私なら徒歩で横地から新野に向かうには塩買坂の選択肢は絶対にありませんね。遠回りです。
かといって駿府方面へ向かうのであればそのショートカットはやはり塩買坂方面には向かわず横地城の北側の「神尾」という村落を抜けて牧之原台地に上るでしょうね。
よって後世関東の歴史まで変えてしまった今川義忠の塩買坂の死ではありますが、何故あの時今川勢があの坂道を超えたのか腑に落ちないところです。その辺のところも後日記すとして・・・
廃校になってグラウンド④⑤だけがその昔を思わせる、かつての新野小学校の隅に城址案内の看板がありますが、こちらも釡原城の看板と同様、鈴木東洋氏の図面でしょう⑥。
この看板にはやはり廃寺となった竜源寺が記されていますが、この寺が、塩買坂にて義忠とともに討死したといわれる高橋氏某の妻が尼となってその菩提を弔ったといわれます。その「尼」→「天」と字があてられて「天ケ谷」と。
⑨の矢印方向が城址⑩でその逆方向が廃寺跡となります。
⑨へ向かう道は⑥の看板のある旧学校脇の駐車場から左に回り⑦を右へ。右に入らないで真っ直ぐ行けば⑧につき当たります。もっとも看板から右からの登城も可能で廃寺跡から向かうコースもありますが、キツイですね。
土塁と虎口らしき場所に掲示板がありますが、まず北側の確認。⑪の石仏のある祠から廻りこんで北側の谷方向はそこでおしまい。そのまま虎口から本曲輪方向へ。途中迷うのかと思いますが、赤と黄の杭に立木にテープが巻かれていますから確認しながら進んでください。
本曲輪はなるほど比較的広くて平ら、周囲は土塁が巡り、虎口も。二の丸方向も自然段丘を利用した堀切も見え、こちらの方向がおすすめ。
二の曲輪の先は南西方向に突き出た尾根を進みますが、例によって笹竹の密集によって行く手を遮られてしまいます。
⑳は途中本曲輪前で見る高天神城方向。
⑲は⑨の先にあったお墓2基。今風のものですが、墓碑銘チェック・・・勿論「高橋」さんです。
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